ストリートギャング アメリカ「人種戦争」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
・目次
 ・始めに
  ・「人種戦争」の虚実
  ・ギャングたちの「人種戦争」
 ・20世紀
  ・1950~70年代
   ・白人ストリートギャング最後の戦い
  ・1980~90年代
   ・冷戦化するプリズンギャング対立
   ・LA
    ・ラ・エメ/スレーニョス対他民族ギャング
     ・チカーノ対黒人
      ・チカーノと黒人の歴史的関係
      ・ラ・エメ/スレーニョスの反黒人戦争
      ・LA各地の反黒人ギャング戦線
     ・チカーノ対東南アジア人
      ・ロングビーチのカンボジア難民たち
      ・抗争の経緯
 ・21世紀
  ・散発する「黒人狩り」とその実態
  ・フローレンシア-13対イーストコースト・クリップス
 ・参考文献
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
・始めに
 人種という概念はあまり人間集団の分類には適さないもので、北欧人と南欧人を合わせてコーカソイド、南アフリカとナイジェリアの人々を合わせてニグロイド、モンゴル人とタイ人を合わせてモンゴロイドと、人々の「本質」どころか気質の考察にすら役に立たない。筆者は科学的な概念としての人種を支持するのではないが、文化的な概念としての「人種」は間違いなく存在するので、本文では長い解説は抜きにしてこの言葉を使う。
 
 
・「人種戦争」の虚実
 一般的にはネオナチやKKKのような白人至上主義者のスローガンとして用いられる「人種戦争(race war)」だが、20世紀後半~21世紀初頭のアメリカ社会では全くの妄想としてとらえられることが多かった。
 歴史的にアメリカ連邦政府は右翼過激派の人種差別を、眼前の変えがたい事実として黙認はしても大々的に肯定することは少なく、ましてや19世紀には南部農園、20世紀には北部工業地帯の主要な労働力の一部となった黒人への攻撃を労働の大きな妨げになる程に過激化させることは許さなかった(注:ネイティヴ・アメリカンなどはまた別。この問題には非常に複雑な側面があるのでこれ以上は述べない)。
 
 20世紀後半には公民権運動への反動としてKKKやネオナチも強力化したが、莫大な資金も十分な科学的・思想的根拠もない彼らは往々にして「白人」たちからも嫌われており、当の彼らの方も有色人種に対するのと同じくらい同胞であるはずの白人たちに危害をなすことが多かった。「二流の政治運動標ぼうゴロ」という白人至上主義者の実態を理解していた主流社会は彼らをまったく相手にせず、カロライナ、アイダホ、テキサス、ミズーリなどの辺鄙な田舎がその活動の主な舞台となった。
 
 
 しかしおそらくはこの「人種戦争」という妄想への嘲笑の裏返しとして、一部の黒人たちの「白人が黒人に攻撃を仕掛けてきている」という考えも被害妄想として一笑に付せられることになった。
 
 黒人貧困層の「自分たちは意図的に攻撃されている」という考えはまったく根拠がないものではなかった。
 1980年代のアメリカを保守反動の時代にした共和党の大統領ロナルド・レーガン、1986年の「麻薬乱用防止法」や1994年の「クライム・ビル」に賛成し犯罪の厳罰化を強く推進した民主党の上院議員ジョー・バイデン、そしてそうした大物政治家たちの尻馬に乗って1989年に冤罪被害者の有色人種少年たち「セントラル・パーク・ファイヴ」を死刑にしろと叩いた後の第45代大統領ドナルド・トランプと、黒人貧困層に大きく害をなした白人たちは自分を白人至上主義的であるとは全く考えておらず、両党の支持者たちも様々な思惑で「社会悪の撲滅」を支持していたのである。
 
 1986年の「麻薬乱用防止法(Anti-Drug Abuse Act)」は、黒人と関係が深かったクラックの所持を原料となるパウダー・コカイン所持の100倍厳しく罰するという異常な法案であった。
 民主党側の最大推進者ジョー・バイデンは「あのくそったれどもを檻に入れろ(Lock the S.O.B.s Up’)」とうそぶき、ネオナチなどとは比べ物にならないほどに多くの黒人たちの人生を破滅させたいわば反麻薬戦争の「A級戦犯」の1人だったが、無数の囚人たちのその苦しみを踏みにじる栄光の議員人生を歩んだ。黒人「ゲットー」では家族を微罪で長期間刑務所に送られた人々の怨嗟の声が渦巻いたが、共和・民主の大多数が賛成していた犯罪厳罰化にあらがうすべなど皆無に近かった。
 
 1980年代後半~90年代前半のクラック禍時代をシカゴ・サウスサイドで過ごした第44代大統領バラク・オバマは、有色人種貧困層の窮状を大きく変えると期待され、実際に囚人数の増加を食い止めるなど社会の多くの面を改善したが、結局は時代の流れに負けて都市の荒廃を止められなかった1970~80年代の全米各地の黒人市長たちの後継に過ぎなかったという面もあった。
 オバマはジョー・バイデンのその過去を十分に承知したうえで彼を副大統領に任命し、2020年の大統領選でも過去を不問にして彼を支持したが、これはいわゆる「ヒップホップ世代」の完全な敗北だった。
 1960~70年代の幼少期にブラック・パワー運動の失墜に失望し、80~90年代には反動として偽悪的に拝金主義を貫いてきたこの世代は、まず長年成功者とあがめてきたドナルド・トランプに拝金主義の現実を突きつけられ、次に自分たちの「兄弟」を大量に刑務所に送って「絶滅危惧種」(アイス・キューブ)にした張本人の1人を「支持しなければならない」ということになった。
 
 もし現代アメリカに「人種戦争」が存在するなら、その首謀者は自覚した白人至上主義者ではなく共和・民主両党の主要政治家たちだといえる。
 
 
 ただ、多少前置きが長くなったが、やはり総括すると「人種戦争」は右翼の幻想として以外は存在しない。上述の様な黒人貧困層への「攻撃」も「階級的搾取」とでもいった方がより的確だし、そもそも迫害を戦争とは呼ばない。
 ここで現代アメリカの黒人社会の窮状を説明したのは、この政府による黒人への迫害によって暗黒街(≒貧困街)の相当の部分が説明できるからである。
 
 
 
・ギャングたちの「人種戦争」
 しかしこの「人種戦争」は、「白人対有色人種」として語られることが多いにしても、少なくともギャングの世界では、事態はそう単純なものではなかった。アメリカ暗黒街の激しい人種的変化はかなりの場合が抗争を伴い、その都度の都合に合わせて無数の中小民族が対立した。
 
 アメリカを代表する都市でもありながら同時に一大例外でもあるNYのインナーシティを例にとると、19世紀からWASP→アイルランド人→ユダヤ人、イタリア人→南部系黒人、プエルトリコ人→メキシコ人、ドミニカ人、中米人と、数十年~半世紀単位で主要民族が入れ替わっており、その都度その都度に新旧民族間で軋轢が生じた。
 移住当初は従来の住民たちから恐れられ嫌われていた民族も、時がたつにつれて新来者を恐れ嫌う側になり、例えばイタリア系は20世紀前半には差別の対象だったが、20世紀後半には「白人」として黒人やプエルトリコ人をさげすみ攻撃する者も多くなった。
 
 ただ黒人、特にその中核をなす南部系の黒人は一大例外で、多くの都市で古顔の民族になってもいまだに「最貧困層」の地位を抜け出せていない。
 例えばカンボジア系は、1980年代にほとんどのものが着の身着のまま英語もしゃべれずにアメリカにやってきた人々であるが、2015年の平均所得は5万5000ドル、一方英語に親しみ先進国アメリカの教育を受けたはずの黒人の平均所得は、改善したといわれる2019年でそれに劣る4万1000ドルであった(カンボジア系は豊かな都市部に多く、黒人は貧しい南部に多いという地域格差もあるのでこの比較が経済面での黒人差別のすべてを説明するわけではない)。背景にはいわゆる「制度的人種差別」の問題があるが、本文ではそれについては述べない。
 
 以下の文では主として「白人対ラテン系」「ラテン系黒人」の抗争について述べるが、チカーノ(メキシコ系アメリカ人)対パイサ(新来メキシコ系)、メキシコ系対中米系、キューバ系対コロンビア系、ラテン系対アジア系、ラテン系対ネイティヴ系、南部系黒人対新来アフリカ系黒人と、アメリカ暗黒街では異人種・異民族のいさかいは無数にある(あった)。
 また本題から外れるので、本文では極右の「人種戦争」については述べない。
 
 
 
 
・20世紀
・1950~70年代
 第二次世界大戦とその戦勝はアメリカに様々な影響を与えたが、ポジティヴな変化としては、多くのアメリカ人がナチスによるユダヤ人「浄化」の醜悪な実態を目の当たりにして自分たちの人種差別を見つめなおしたことが大きかった。アメリカ社会の多民族化が白人間の小さな違いを覆い隠したこともあって、終戦後数十年の間にWASPの白人マイノリティーに対する差別は急速に寛解していった。
 
 すでにWASPは未成年・成人問わずにギャングの世界から遠ざかっていたが、白人マイノリティーのアイルランド人やユダヤ人も後を追って中流化、住環境の悪化し続ける都市部を逃れて郊外移住現象「ホワイト・フライト」で豊かで平和な郊外へと移住していった。残されたのはイタリア人を中心とする南欧系や東欧系であり、往々にして貧しい不良少年たちは反有色人種の無益な争いを闘った。
 
 
・白人ストリートギャング最後の戦い
 1950~60年代に「人種戦争」のもっとも華々しい戦場となったのは、17世紀の創設以来の多民族都市NYだった。
 アメリカの大都市中では際立ってマフィアの影響力が強いこの街では、その下部組織的な存在として多数のイタリア系ストリートギャングが活動しており、大都会の暴力沙汰に慣れきった彼らが「自分たちの街」に増えてきた田舎生まれの「スピック」や「ニグロ」たちに牙をむいたのである。
 
 1950年代にはマンハッタン・ハーレムのレッドウイングス、ブロンクスのゴールデン・ギニーズ、ブルックリンのサウス・ブルックリン・ボーイズなどが存在し、プエルトリコ系のヴァイスロイズやドラゴンズ、黒人系のビショップスやチャプレインズなどと抗争していた。
 彼らは父母の有色人種への強烈な差別意識を受け継いでおり、その反黒人・ラテン系闘争は数十年にわたってNY市民社会の人種関係に爪痕を残した。
 1958年5月31日の戦没将兵追悼記念日にはレッドウイングスが、キューバ移民のフリオ・ラモスが恋人と一緒にジェファーソン・パークにいるところを見とがめて「スピック」と罵倒して詰め寄り、後に有力麻薬密輸業者となるアルフレッド・カティノの先導で暴行して殺害している。
 
 1961年の映画『ウエストサイド物語』は、シェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』に範を取った名作ミュージカル映画だが、「プエルトリコ人側」の多くを白人が演じていたことが示すように、似たような者同士でいがみ合っていたNYの白人ストリートギャングたちの悲しい墓碑ともなった。
 1970年代にはノースブロンクスのゴールデン・ギニーズのようなわずかに残ったギャングたちが「怒れるマフィアの歩兵を務めていた」(ジェフ・チャン『ヒップホップ・ジェネレーション』)が、80年代にはクイーンズなどの郊外地区で活動するのみになり、90年代が終わるころには親世代に当たるマフィアとともに沈黙を強いられることになった。
 
 イタリア系の不良による黒人襲撃はしぶとく続き、1986年ハワード・ビーチでのマイケル・グリフィス殺害、1989年ベンソンハーストでのユセフ・ホーキンス殺害、2005年のハワード・ビーチでの黒人暴行事件などが有名な事件だが、多くが数にものを言わせたリンチ事件であり、そのころにはもはや最も危険な部類の黒人ギャングと張り合ってやろうという若者は消え失せていた。
 
 
 西のギャング首都LAでは、伝統的に白人不良少年はチカーノと親しかったが、一方でKKKやネオナチの影響も強かった。
 20世紀前半には、1930年代大恐慌時代の「オーキー」などのような移住者を通して南部の影響が色濃かったこの街は、しかし南部からくる黒人に対しては厳しい人種隔離政策をとっていた。
 1940年代後半に人種隔離政策が撤廃され、サウスセントラル・ウエストサイドやコンプトンのような白人地区に黒人が急増すると、KKKやスプーク・ハンターズのようなあからさまな反黒人ギャングが彼らを襲いだしたのである。
 
 しかしもちろん南部からの黒人流入の流れを止めることなどできず、スロウソンズやビジネスメンなどの黒人ギャングも増加、最終的には1965年のワッツ暴動がサウスセントラルLAからほとんどの白人たちを逃げ出させることになった。
 その後の数十年間で黒人中流層まで徐々に消えていったサウスセントラルLAでは、ブラック・パワー運動に負の形で強く影響されたクリップス/ブラッズが我が物顔でうろつきまわるようになり、郊外で中流・下流層中心に活動する白人のネオナチ・スキンヘッズなどとは全く次元の違う「ドラッグ・ゲーム」をやるようになっていった。
 
 
 滅びゆく白人ストリートギャングの最後の砦となったのがシカゴ・ノースサイドであり、20世紀前半のソーシャル・アスレチック・クラブ/SACの流れを汲んだゲイローズやサイモン・シティ・ロイヤルズが、主としてプエルトリコ人からなるラテン・キングスなどと熾烈な抗争を繰り広げていた。
 1971年に有力白人ストリートギャングたちによってホワイト・パワー・オーガナイゼーション/WPOが結成され、内紛を抱えつつも70年代中は対ラテン系ギャング闘争を闘った。
 しかし刑務所内での黒人の圧力はいかんともしがたく、多くの白人ギャングが1978年に結成された黒人主導のフォーク/ピープル・ネーションに参加、その後10~20年程度で治安が悪化し続けるストリートからは消え去っていった。
 
 
 1970~80年代を通して全米中の大都市から消え去った白人ストリートギャングだったが、一方では過去のイメージや成人のマフィアについての報道などでその衰退は覆い隠されていた。
 1990年代には白人ストリートギャングが「壊滅した」と言っていいほどに激減したことが一般社会に強く意識されたが、一方では「ストリートギャング=黒人・ラテン系」という、実態は確かに伴っているがその意味するところは理解度によってかなり違う(「ストリートギャング=全員が重犯罪者」ではない)人種差別的なイメージが流布した。
 インターネット時代となった次の2000年代、そして文化的にはあまり変わり映えのしなかった2010年代には、白人の好むユースカルチャーからは不良臭がどんどん消えていった。一方でこの2つの年代は、青少年ギャングどころかミュージシャンまで次々と殺されていく黒人「ゲットー」の異様さを際立たせ、2008~16年のオバマ政権下でもその状況が大きく改善することはなかった。
 
 
 
 
・1980~90年代
・冷戦化するプリズンギャング対立
 1970~80年代に白人ストリートギャングが衰退していくとともに、ギャングの世界ではあからさまな人種憎悪も鳴りを潜めていったが、刑務所内では人種イデオロギーはいまだに健在だった。1980年代から全米的に囚人が激増していく中でラテン系、黒人、白人のいずれも「自衛」の必要性を感じており、アメリカ南西部を中心に全米各地でプリズンギャングが増加していたのである。
 
 もっとも強力なプリズンギャングを生んだのはカリフォルニアであり、1960年代にはラ・エメ/メキシカン・マフィア(1957年設立)、アーリアン・ブラザーフッド/AB(1964)、ヌエストラ・ファミリア/NF(1965)、ブラック・ゲリラ・ファミリー/BGF(1966)が4大プリズンギャングとして確立している。このうちラ・エメはABと、NFはBGFと親しく、次の10~20年には熾烈な「人種戦争」が巻き起こった。
 しかしその実態は、最大勢力のラ・エメであっても「ヘロイン中毒者の群れ」(レネ・エンリケス)であり、刑務所内外での麻薬取引の莫大な利潤を前におおよそ1980年代後半には人種イデオロギーは後ろに引いていった。
 ラ・エメ対BGF抗争は1970年代後半に勃発、1984年に刑務所当局が設けた和平交渉の場で乱闘となりラ・エメがBGFメンバーを殺害するという事件まで起こったが、80年代後半にはラテン系囚人の増加によって沈静化していった。
 
 カリフォルニアでプリズンギャングの対立が先鋭化した最大の理由はその膨大な刑務所人口が主因だが、もう1つ見逃せないのは黒人ギャングたちの相対的な弱さだった。
 圧倒的に黒人が強いイリノイ州シカゴでは、ラテン系ストリートギャングたちはギャングスター・ディサイプルズ主導のフォーク・ネーションか、ヴァイス・ローズおよびブラック・P・ストーンズ主導のピープル・ネーションの傘下で活動するしかなかった。
 しかしカリフォルニア刑務所ではラテン系と黒人との人口差は最低でも2倍、多ければ数倍にもなり、チカーノが黒人の傘下に下るなどまず考えられなかった。そしてチカーノが優勢な刑務所のこの状況は、クリップス/ブラッズが強いサウスセントラルLAなどのストリートの状況とは大きく食い違っていた。
 チカーノの数は黒人の数倍、しかし実際に殺しをやれる、やったことのある「シューター」の数にはそこまで差がないというLA暗黒街の事情が、チカーノ-黒人間の危ういバランスを保っていた。
 
 
 
・LA
・ラ・エメ/スレーニョス対他民族ギャング
 1965年の移民法改正によって世界中の様々な民族に大きく門戸を開いたアメリカだが、もっとも強く影響を受けた地域の1つが太平洋岸の最大都市LAだった。
 最大のマイノリティー民族であるメキシコ系に加えて、中米系ではエルサルヴァドル人やグアテマラ人、アジア系では中国人、韓国人、東南アジア系、フィリピン系、そしてアイランダーズ、中東系、東欧系、コーカサス諸国系、南アジア系などの多種多様な民族が流れ込んできたのである。
 
 移民・難民は概して貧しく、多くの人間が住み着いた貧困地区ではその子弟がいじめやからかいの的になることも多かった。こういった「よそ者たち」をもっとも強烈に攻撃してきたのは、「バリオ(地元)」に古くから根を張るチカーノ・ギャングたちであり、多くの移民青少年が対抗して自衛グループを結成、一部が横滑り的にギャングへと変化していった。
 1980~90年代の非主流派民族のストリートギャングにはMS-13(エルサルヴァドル系)、華青(中国系)、コリアン・キラーズ(韓国系)、サタナス(フィリピン系)、アジアン・ボーイズ(アジア系)、タイニー・ラスカル・ギャング(カンボジア系)、アルメニアン・パワー-13(アルメニア系)、サンズ・オブ・サモア・クリップス(サモア系)、トンガン・クリップ・ギャング(トンガ系)などがあり、そのほとんどがチカーノか黒人のギャングたちといがみ合いつつも文化的に融合していった。
 
 
 
・チカーノ対黒人
・チカーノと黒人の歴史的関係
 多くのチカーノが黒人ミュージシャンによる「ロウライダー・オールディーズ」を愛好、黒人もパチューコ文化に親しく馴染むなど、一般社会では兄弟のような間柄だったLAのチカーノと黒人だったが、ことギャング間の関係についてはそう簡単にはいかなかった。元LAPDのリチャード・ヴァルデマーによると、彼が育った1960年代にはサウスセントラルなどでは黒人ギャングが圧倒的に強く、彼らがチカーノに暴力をふるうことがよくあったという。
 しかし当時は人種の垣根がまだまだ高く、ギャングの世界でも住み分けが可能だったために、「チカーノ対黒人」という全面戦争になることはまずなかった。
 
 一方でその1960年代は、カリフォルニア刑務所内でラ・エメ、NF、AB、BGFの4大プリズンギャングが確立した時期であり、出所したそのメンバーたちが刑務所での人種対立をストリートにまで持ち帰ると、70年代を通してチカーノと黒人の関係は少しずつ悪化していった。さらにこの時期に拡大し顕在化した麻薬取引は、人種・民族の垣根なく客を取り合う「仕事」だったために、人種間の縄張り意識も徐々に希薄になっていった。
 
 1980年代にはチカーノ・ギャングは今までになかったほどに強力化、マリファナ、パウダー・コカイン、ヘロインなどの取引の主要部分を牛耳るだけではなく、それまでは白人のシノギだった覚せい剤密造までも急速に奪いつつあった。ただ、LAでは1980年代前半から浸透、1984年前半に爆発的に流行したクラック・コカインは利幅の大きさゆえに暴力性で勝る黒人ギャングが取引を支配しており、チカーノ・ギャングの進出は困難だった。
 
 しかし黒人ギャングたちの過激な暴力は他の何よりも自分たちの民族社会を痛めつけていたために、80年代を通じてLA都市部からは黒人の人口流出が加速していった。1990年代前半にもなると本拠地サウスセントラルLAですらクリップス/ブラッズは徐々に衰退、地域のチカーノ・ギャングが勢力を伸ばし始める。
 加えて1980年代からはアメリカ全体で囚人人口が激増、1980年には2万人だったカリフォルニアの収監者人口が、2009年には約16万人にまで膨れ上がっていた。
 
 
・ラ・エメ/スレーニョスの反黒人戦争
 1992~93年にはラ・エメが南カリフォルニア各地のラテン系ギャングに、自らの傘下連合であるスレーニョスへの参加を大々的に呼びかけた。
 新たに加わったギャングたちに対してラ・エメは、麻薬取引の際の上納金の支払い、スレーニョス間での抗争の抑制、ドライヴバイ・シューティングの禁止などを通達し、加えて他人種ギャング、特に黒人ギャングへの攻撃を推奨していた。93年6月にはノースイースト・LAのモンテシート・ハイツで大規模な集会が開催されている。
 
 1992年4月29日、LA暴動の最中に起こったエイト・トレイ・ギャングスター・クリップスの「フットボール」ダミアン・ウイリアムスによるラテン系男性の暴行は、それに激怒したラ・エメの殺害推奨(グリーンライト)を招いた。殺しはMSが実行しようとしたが、察した刑務所当局がウイリアムスを保護房入りさせて何とか穏便に収まっている。この事件をきっかけに反黒人路線の優先順位が上がったと思われる。
 1993年にはLA郡拘置所内だけでも最低53件の人種暴動が起こり、ピーター・J・ピッチェス・オナー・ランチョでのものは800人規模にまで膨れ上がった。
 
 このラ・エメ/スレーニョスの仕掛ける「人種戦争」に対して黒人ギャングたちの足並みはそろわず、例としてウエストサイド・LAのヴェニス・ショアライン・クリップスとセントラルLAのプレイボーイ・ギャングスター・クリップスは長年の間対立状態にあった。背景にはVSL・クリップスの属するネイバーフッド・クリップス対PBG・クリップスの属するギャングスター・クリップスの抗争があり、クリップス対クリップスの内紛が「LA最大のギャング抗争」と評されるまでに深刻化していたことがあった。
 
 
・LA各地の反黒人ギャング戦線
 1990年代にはLA各地でスレーニョスが反黒人ギャング戦線を張り、ギャングどころか一般人までも無差別に巻き込む暴力事件が頻発した。
 
 最も初期に起こり最も激しい抗争となったのは、ヴェニス-13およびカルヴァー・シティ・ボーイズ中心のウエストサイド・LA・スレーニョス連合対VSL・クリップスであり、1993年後半に本格的に開戦、97年にも再燃しておそらくは約55名の死者を出した。
 
 1990年代中盤にはサウスセントラル・ウエストサイドで18th・ストリート対BPS、ローリン・20sのブラッズ連合の抗争が勃発している。1996年2月5日にはブラッズが、18th・ストリート・アルセース・ロコスの有力メンバーの弟だった14歳の「エディー」エドゥアルド・ガメスを殺害している。
 
 コンプトンではトルティーヤ・フラッツが、30年以上縄張りを共有してきたフルート・タウン・パイルを攻撃、1999年5月には「サントス」ホルヘ・ディアスがレヴァー・ヒギンズを殺害し、ヘイトクライム殺人とみなされて有罪になっている。同じくコンプトンでは、コンプトン・セテンタス(70s)がルーダース・パーク・パイルと抗争に突入している。
 
 ポモナではポモナ・12・ストリートが特に黒人に敵対的で、ニガー・キラーズというクリックまで持っていた。
 SGVでのイーストサイド・ドゥエルテ対ドゥ・ロック・クリップス、サン・ペドロでのランチョ・サン・ペドロ対ドッジ・シティ・クリップスが注目の抗争になった。
 SFVではパコマ・パイル・ブラッズとバリオ・パコイマ・ラテン・タイムズ-13やノースハリウッドのヴィレッジ・ボーイズとの抗争が特に激しくなった。
 IE・リヴァーサイドのイーストサイド・リヴァスは1200・ブロック・ECCを攻撃、十数年で一般人を含めて20名近くの死者が出たという。
 ノースイーストLAのアヴェニューズ、アズサのバリオ・アズサ、ノーウォークのバリオ・ノーウォーク、オレンジ・カウンティのギャングたちなども黒人を狙い始め、数少ない地域の黒人家庭は恐怖におびえることになった。
 
 クリップスはすでに1970年代から一般人にもためらいなく暴力をふるっていたが、この時期にはスレーニョスも一般人を狙うようになった。
 最も痛ましい事件の1つは、2006年12月のヴァリオ・204・ストリートによる14歳の少女シェリル・グリーン殺害で、銃撃犯は死刑判決を受けた。
 
 
 
・チカーノ対東南アジア人
・ロングビーチのカンボジア難民たち
 1980~90年代にサウスセントラル・LAをベイルートの戦場に変えたクリップス対ブラッズ、クリップス対クリップスの混沌の中で戦われたチカーノ・ギャング対黒人・ギャングの裏で、目立たずとも深刻な問題となっていたのが、チカーノ・ギャングと東南アジア人ギャングの対立だった。
 
 1980年代を通してアメリカでは東南アジア系の人口が急増しており、各地に民族街を形作っていた。東南アジア系難民の中心となったカンボジア系は、1978年のクメールルージュ政権崩壊後からアメリカに急増し、1991年には全米で約22万人、LAだけでも4万5000人規模にまで膨れ上がった。特にカンボジア系が多かったロングビーチには「リトル・プノンペン/カンボジア」が形成され、約43万人の人口のうち約10パーセント程度を占めることになった。
 しかし「ボート・ピープル」がほとんどだった彼らがたどり着いたアメリカでは、レーガン政権下でマッチョな排外主義が横行しており、新参者の東南アジア人は体が小さく英語も不自由なものが多いために、悪質な一般人、不良少年、ギャングなどの絶好のいじめのターゲットとなった。
 
 1980年代のLA南部、ロングビーチでの最大のギャングはイーストサイド・ロンゴスだった。
 1985年の時点では約600名いたという彼らは、ロングビーチではずば抜けて巨大な存在であり、約350名のWS・ロンゴス、約100名のトーカータウン・フラッツやカーソンのバリオ・ポブレなど対立するラテン系ギャングのどこよりも多くのメンバーを持っていた。
 カンボジア系も対抗してギャングを結成、元LAPDのリチャード・ヴァルデマーによると、早くも1981年にタイニー・ラスカル・ギャングスターズ/TRGが結成されている。
 
 1980年代中盤~後半にかけてカンボジア系は大きく強力化、TRGは数百名にまで増加し、同じくカンボジア系中心の多民族ギャング、アジアン・ボーイズなどはロングビーチでの黒人たちの力を恃もうとしてクリップスに加盟した。
 チカーノ・ギャングたちはこの「よそ者」の増殖に強い不快感を示し、特にイーストサイド・ロンゴスはことあるごとに彼らを攻撃した。
 
 
・抗争の経緯
 「人種戦争」はTRGが1989年10月にES・ロンゴスの16歳の少年オスワルド・カルバハルを殺害することで開戦した。TRG側にはSEA(スイサイダルズ、EFCC、アジアン・ボーイズ)同盟、ES・ロンゴス側にはWS・ロンゴスなどが付いた。
 
 数にも力にも勝るロンゴス相手にTRGをはじめとするカンボジア人ギャングは800名程度の勢力で戦うと、抗争の死者数は1990年には5人、1991年には8人、1992年には7人、1993年には6人、1994年には7人と積み上がり、最終的には一般市民を含めて50人以上の死者と200人以上の負傷者が出た。
 1991年当時ロングビーチには約8800名のギャングメンバーがいたといわれるなかで、そのうちラテン系は4000名、ロンゴスはESとWSのたった2派で2500名ものメンバー数を誇っていたという。
 一方で、ロンゴスなどのヒスパニック系のギャングがターフに依拠するのに対して、カンボジア人は民族での団結力が強く、タコマやLAダウンタウンからも援軍を呼び寄せて戦った。ヒスパニック系の強いこの土地では、TRGは世論や他のギャングを敵に回さないように敵ギャングのメンバーを慎重に狙ったのに対して、そもそもがアジア人を侮蔑しているES・ロンゴスはカンボジア人であれば老若男女を的にかけたという。
 
 異人種間の抗争ではどちらかがどちらかを吸収するといった形での決着はあり得ないために、抗争はただひたすらに膠着した。チカーノ優位の土地でTRGの完全勝利はまずなく、ES・ロンゴスもカンボジア系ギャングが簡単にはつぶせない相手だということがわかってきたので、両者ともに全面抗争への熱意を失っていったのである。
 1994年にはラ・エメが東南アジア人ギャングへの「グリーンライト(殺害奨励)」を決定し、刑務所内での東南アジア人の立場はかなり悪くなった。
 1990年代後半には抗争は沈静化しているために、おそらくは休戦会談がもたれたか、あるいは暗黙のうちに何らかの休戦の合意に達したと思われるが、詳細な事情は不明である。
 
 
 
 
・21世紀
・散発する「黒人狩り」とその実態
 1990年代後半~2000年代前半に「ラテン系ギャングが黒人を襲っている」ことに気づき始めたマスメディアは、当然人種的憎悪が最大の問題だと考え、「人種戦争」の言葉がやや疑問符付きながらも飛び交うことになった。
 すでに刑務所内の人種対立とそこでの黒人の劣勢ぶりは有名になっており、LAストリートギャングの新時代の到来が、過去には本物の戦争で新聞を売ってきたような人々にも大いに注目された。
 
 
 しかし「黒人狩り」の実態は、かつてのスプーク・ハンターズや後のネオナチ・スキンヘッズなどの黒人への攻撃とはやや違ったものだった。前述のように問題の源泉は刑務所内にあり、また攻撃される黒人側も白人至上主義者からの攻撃と同じようには受け止めなかった。
 
 被害者の側となった黒人たちは、多民族都市LAの市民としてラテン系の様々な面を見てきた。
 リベラル・保守派を問わずに大方が自分たちより富裕で自分たちから距離を取りがちな白人とは違い、長年白人の迫害に耐えてきたチカーノに加えて、戦争から逃れてきた中米難民や英語もろくにしゃべれないメキシコ系不法移民労働者などは、そのタフネスだけでも十分に尊敬に値するものだった。
 加えて、1972年のコンプトン・クリップスによる「レザージャケット殺人」以来クリップス/ブラッズは数多くの黒人一般人を殺害し続けてきていた。その「ストリート・テロリズム」はただ同胞を食い物にするだけではなく同じ黒人への同族嫌悪に満ちたものだったが、黒人貧困層は彼らを通じて一般市民とは全く異なったギャングたちの醜く幼稚な心性をよく知っていた。
 
 当然チカーノの一般人も黒人を憎んでなどおらず、チカーノ全体が人種主義者であるかのように報道されることには強い反発が巻き起こった。
 もちろんチカーノ内部には黒人を「マヤーテ(フンコロガシ)」とさげすむものもいたが、彼らが民族全体として黒人を抑圧したことなど一度もなく、人種差別とギャング暴力の被害を受け続けてきた自分たちが「道徳的には人種主義者やギャングと同程度の連中だ」という白人中心のマスメディアのほのめかしなどはまったく受け入れがたかった。
 この受け取り方には被害妄想じみたものがあったかもしれないが、黒人たちと同じくそれはやはり過去の経験から来たものだった。
 
 「人種戦争」とは次元の異なる「異人種間衝突(Inter-Racial Conflict)」というのが、両者の関係を表現するのに最も適切な言葉と思われる。
 510ページにも上るRobert Donald Weideの論文「Race War? Inter-Racial Conflict Between Black and Latino Gang Members in Los Angeles County」は、多くのギャングメンバーに人種関係についてインタビューしているが、敵ギャングではなく異人種への憎しみを表明したものは1人もいなかった。
 2007年10月18日付のLAタイムスのインタビューにF-13のロバート・ラミレスが答えて言うように、「誰も人種主義者は好きじゃない」のであり、ましてや自分たちが人種主義者になるなど考えられないことだった。
 
 
・フローレンシア-13対イーストコースト・クリップス
 2000年代前半にサウスセントラル・イーストサイドで勃発した「人種戦争」も、やはり人種ではなくギャング間の「戦争」に過ぎなかった。
 かつての白人ギャングたちよりはるかに強力なクリップスであってもそもそものメンバーの郊外流出には勝てずに空洞化、新来移民によって強力化していたラテン系ギャングがその後を埋めようとしていたのである。
 
 1990年代前半までは縄張りを共有していたフローレンシア-13/F-13とイーストコースト・クリップス/ECCだったが、ラ・エメの影響力増大によって反黒人政策が浸透、F-13は長年の敵であった38th・ストリートとの「休戦」まで強いられて黒人と対立することになった。
 
 ECC側もこの変化に気づき、一部の二次団体がF-13を攻撃していった。
 1996年にはECC系の6-5・ハスラーズがフローレンシア-13のメンバーを殺害して両者の中は険悪化したが、この時はパーメリー小学校の校庭で和平会談が持たれて一応は丸く収まっている。しかし両ギャングの対立は収まらずに、1998~99年ごろにもECC・6-9支部がF-13メンバーに強盗を働くなどした結果さらに悪化していった。
 
 
 2004年にペリカンベイ刑務所のフローレンシア-13幹部兼ラ・エメのアルトゥーロ・カステヤノスがストリートで動かしていた麻薬がイーストコースト・クリップスに盗まれることで、全面抗争が勃発した。F-13はスレーニョス、ECCはクリップスの最大級の二次団体であり、イーストサイド地区では群を抜いて強力な巨人だった。
 
 F13側は勝っても何も得るものがないが報復しなければギャングとして終わってしまう、ECC側はいくら仲間とはいえ麻薬泥棒など積極的に守る気になれない、そういった複雑な事情を知ってか知らずか、アルトゥーロはペリカンベイ刑務所からF13縄張り内のECCの「浄化」を命じたという。
 しかしその対象となったサウスLA・フローレンス-ファイアーストーン地区は、超長期刑を務めるアルトゥーロには二度と戻れる見込みのない場所だった。
 
 F13約2000名対ECC約850名の抗争がこうして勃発、2007年までの約3年間で20件以上の殺人と80件以上の銃撃事件が起こった。「F13は黒人なら誰彼構わず撃っている」といううわさも流れ、上述LAタイムス記事でラミレスが語るように全くの間違いだったが、多くの一般市民が恐怖におびえた。両ギャングは一般人も次々に殺害し、2005年にはアレハンドロ・バラレス、ガビーノ・ロペス、2007年1月にはデメトリアス・ペリーが殺害されている。
 しかしこの抗争はあくまでもF13対ECCに終始し、一部メディアが騒ぎ立てた「黒人狩り」も数件を除いて起こらなかった。伝統的に黒人ギャングが強いサウスLAではチカーノと黒人は平和裏に住み分けて縄張りを共有していた。F13もマッド・スワン・ブラッズなどとは友好的で、狙っていたのはクリップス全体ではなくECCだけであり、ECC側もチカーノという民族そのものを攻撃する気はまったくなかった。
 抗争はその後2009年に警察の捜査作戦「オペレーション・ジョーカーズ・ワイルド」でF13有数の二次団体ジョーカーズが弱体化するなどして膠着、強盗事件の犯人とみられる76・ECCが壊滅したこともあって、2019年には休戦会談に入っている。
 
 
 
 
 
 
「ストリートギャング アメリカ「人種戦争」」参考文献
 -コラムに近いような記事なので例によってそこまで詳細な参考文献は付けなかった。
・「始めに」
・反麻薬乱用条例
「Anti-Drug Abuse Act of 1986」
https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-Drug_Abuse_Act_of_1986
「CRACKS IN THE SYSTEM: 20 YEARS OF THE UNJUST FEDERAL CRACK COCAINE LAW」
 -「Four years later, the average federal drug sentence for African Americans was 49% higher.」
https://www.aclu.org/other/cracks-system-20-years-unjust-federal-crack-cocaine-law
「Joe Biden’s long record supporting the war on drugs and mass incarceration, explained」
https://www.vox.com/policy-and-politics/2019/4/25/18282870/joe-biden-criminal-justice-war-on-drugs-mass-incarceration
「How an early Biden crime bill created the sentencing disparity for crack and cocaine trafficking」
 -「Biden was the lead anti-drug guy among the Democrats.」
 -「African Americans made up 88.3 percent of those convicted of federal crack offenses in 1993, even though federal survey data showed that a majority of crack users were white.」
https://www.washingtonpost.com/politics/how-an-early-biden-crime-bill-created-the-sentencing-disparity-for-crack-and-cocaine-trafficking/2019/07/28/5cbb4c98-9dcf-11e9-85d6-5211733f92c7_story.html
「’Lock the SOBs Up’: Joe Biden and the Era of Mass Incarceration」
 -「That tough-on-crime stance, Mr. Kaufman said, was “a very popular position to take in the African-American community.” But in interviews with community leaders in Wilmington, not everyone agreed.」
 -「the pair wrote roughly a half-dozen crime bills together, laying the groundwork for three of the most significant pieces of crime legislation of the 20th century」
 -「in 1992, 91.4 percent of federal crack cocaine offenders were black.」
 -この過去が「ドナルド・トランプより非人種差別的」で許されるのだから、つくづく有色人種貧困層はバカにされたものである。
https://www.nytimes.com/2019/06/25/us/joe-biden-crime-laws.html
「THE UNTOLD STORY」
https://theintercept.com/2019/09/17/the-untold-story-joe-biden-pushed-ronald-reagan-to-ramp-up-incarceration-not-the-other-way-around/
「FEDERAL COCAINE SENTENCING LAWS: REFORMING THE 100-TO-1 CRACK/POWDER DISPARITY」
https://www.govinfo.gov/content/pkg/CHRG-110shrg46050/html/CHRG-110shrg46050.htm
・制度的人種差別
「Black household income is rising across the United States」
https://www.brookings.edu/blog/the-avenue/2019/10/03/black-household-income-is-rising-across-the-united-states/
「Economic characteristics of Cambodian Americans」
https://www.pewsocialtrends.org/chart/economic-characteristics-of-u-s-cambodian-population/
 
・「1950~70年代」
「New York City Fighting Gangs」
 -この時期のNYのグリーサー・ギャングについては、サイト「ニューヨーク・シティ・ファイティング・ギャングス」が非常に詳しく、興味がある方は是非とも一読をお勧めしたい。
http://newyorkcitygangs.com/
「East Harlem Red Wings & Jefferson Park Killing」
 -ラモス殺害
http://newyorkcitygangs.com/?page_id=1208
 
・「1980~90年代」
「Race War? Inter-Racial Conflict Between Black and Latino Gang Members in Los Angeles County」
 -510ページにも上るRobert Donald Weideの論文。スレーニョスの「人種戦争」についてはひょっとしたらこれを読むだけで充分かもしれない。
 -p.267-268.CDCRの囚人数と人種構成
 -「the war between the Mexican Mafia and the BGF started in the late 1970’s and peaked in the mid-1980’s tapering off towards the end of the decade 」
 -「it seems a reasonable assumption to suggest that the peaks in the rate of inmate on inmate assault in the 1980s is a reflection of the Mexican Mafia/BGF war that was raging onhigh level prison yards in the CDCR system during those years.」
 -「in 1984 CDCR officials allowed BGF and Ememembers to meet with one another to negotiate a truce between the two factions, but at the meeting a fight broke out and one of the Mexican Mafia representatives stabbed to death one of the BGF representatives during the meeting. 」
 -「 the conflict between 18thStreet and Black P Stone and Rolling 20s has continued unabated for over two decades to the present day.」
 -「Eddie’s older brother was a role model for us at the time, having been one of the first of our generation to make the transition to full-fledged gang membership, and had quickly become a well-known and respected member of one of the local 18thStreet cliques, the Alsace Locos.」
 -「Some of my homeboys had robbed them for like over a hundred keys.The 6-9 East Coasts. This was in like 98, 99. It was just on from there」
https://search.proquest.com/openview/30150c899b97e2e89a79fe955a65b3b0/1?pq-origsite=gscholar&cbl=18750&diss=y
「DON’T JUDGE A MAN BY THE COLOR OF HIS RAG: THE REALITY AND RESISTANCE OF GANGSTA RAP AMONG LOS ANGELES GANG MEMBERS」
 -「South Central’s population and racial make-up represented “half a million Black (40%), and Mexican/Latino (58%)” (Cureton, 2008, p. 1). 」
https://core.ac.uk/download/pdf/147241348.pdf
・チカーノ・ギャングと黒人ギャングの関係
「Los Angeles Gangs and Hate Crimes
https://www.policemag.com/373103/los-angeles-gangs-and-hate-crimes
・「VSL・クリップス対スレーニョス連合」
「Los Angeles Magazine – Jan 1998 – Page 70」
 -97年の抗争の詳細。当時カルヴァー・シティは約800名。
「’Nothing stops a bullet like a job’」
 -「What we do know is that last week, Schoolfield, at the age of 28, became gang victim No 100 in LA this year. 」
 -「The current police log, updated monthly, shows that there are 61,406 members in LA’s 409 gangs;」
 -「Over in Venice, it is not a Catholic priest but a Nation of Islam activist who has been trying to get the young men of the Shoreline Crips off the streets, away from crack and into jobs.」
https://www.theguardian.com/world/1999/nov/24/usgunviolence.usa
「GANGING UP IN VENICE」
 -「The Shoreline Crips first made local headlines in 1993, when a war began with rival Latino gangs that left over 20 dead. 」
https://www.laweekly.com/ganging-up-in-venice/
「Clashes Between Latino, Black Gangs Increase」
 -「Nowhere has the clash been more fierce than on the Westside, where 13 people have been slain this year in a retaliatory cycle of bloodshed between two Latino gangs and one black gang that erupted in Venice’s Oakwood district and spread east to the Mar Vista Gardens housing project.」
https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1993-12-26-mn-5770-story.html
「Teenager Killed in Shooting Near Venice」
 -「the bloody warfare between rival gangs that engulfed the neighborhood for nine months.」
 -「That 1994 war–between the primarily black Shoreline Crips and the largely Latino V-13 gang–was one of the deadliest ever in Los Angeles, leaving 17 dead and 55 injured, police said.」。「94年の抗争で55名死亡」は誤りで、おそらくここまでいったとしたら抗争全体。
 -「A truce was finally brokered in June 1994, to the relief of the community and police officials.」。上の方で9か月続いたとあるから、おそらく抗争勃発は1993年10月ごろ。
 -ラ・エメとBGFのメンバーが地区に釈放されていたそうだが名前は不明。
 -「Los Angeles County Jail system; so far this year, there have been 53 brawls, some of which have involved as many as 800 inmates, at the Peter J. Pitchess Honor Rancho.」
 -モンテシート・ハイツでの集会が何度目のものかは不明。
 -「Oakwood’s principal Latino gang, Venice 13, has long shared the same streets with the Venice Shoreline Crips, often spray-painting their monikers side-by-side. In Mar Vista Gardens, drug-dealing turf was divvied up between the Crips and the project’s larger Latino gang, the Culver City Boys.」
 -「In South-Central Los Angeles, a bloody seesaw battle between one of the oldest Crips gangs and a rapidly expanding Latino gang has claimed more than 20 lives since a prison dispute sparked the feud nearly three years ago, officers say.」。どこのことだろうか。
https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1997-04-04-me-47819-story.html
「Los Angeles Courts Help Fight Gangs」
 -「There are 22 unsolved slayings in which members of the Culver City Boys are the lead suspects,」
 -「the addition of nearly 2,000 police officers in Los Angeles in the last five years.」
https://www.nytimes.com/1999/06/20/us/los-angeles-courts-help-fight-gangs.html
 
・「チカーノ対東南アジア人」
「The Gangs of Long Beach」
 -「ロングビーチのギャング」1985年の記事。
http://articles.latimes.com/1985-12-01/news/hl-5396_1_street-gangs
「As Cultures Meet, Gang War Paralyzes a City in California」
 -「Since tensions escalated into war 18 months ago, the police say, more than 55 drive-by shootings have claimed victims, including 10 people shot to death, in an alternating series of revenge attacks.」
 -「Fears of violence have nearly paralyzed the city’s Cambodian population of about 45,000, the largest in America.」
 -「The new census figures show Long Beach with a population of 429,000, of whom 24 percent are Hispanic residents and about 13 percent are Asian, largely Cambodian refugees.」
 -「The police estimate that there are 8,800 gang members here, of whom perhaps 4,000 are Hispanic. About 800 are Cambodians and the remainder are black, white or other Asians.」
 -「October 1989, when a carload of Cambodians from the Tiny Rascal gang shot and killed a member of the East Side Longo gang.」
 -「”Some of these kids can’t remember Cambodia at all, and they barely remember some of the refugee camps,” he said. “I’m still shocked. You say, ‘Pol Pot’ and they say, ‘Who?’ “」
https://www.nytimes.com/1991/05/06/us/as-cultures-meet-gang-war-paralyzes-a-city-in-california.html
「Latino and Asian Gangs Engage in Deadly Warfare」
https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1991-04-15-me-111-story.html
「TRG」
 -新聞記事の転載と思われるが正確な出所は不明。
 -「Carbajal was the only Hispanic gang member to be killed by an Asian gang that year, but it marked the start of a bitter rivalry that exists between the two groups today. The next year, five young men were shot to death in the Hispanic and Asian rivalry. In 1991, there were eight; in 1992, seven; in 1993, six; in 1994, seven.」
http://www.streetgangs.com/billboard/viewtopic.php?t=56960
「TRG (Tiny Rascal Gangsters): Asian Gangs in Long Beach」
 -「In 1981, after repeated assaults by East Side Longo gang members, several youthful Cambodian immigrants formed the Tiny Rascal Gangsters (TRG) gang.」
https://www.policemag.com/373245/trg-tiny-rascal-gangsters-asian-gangs-in-long-beach
・「グリーンライト」
「”Green Light” on Asians Continues in Jail System」
 -アジア人へのグリーンライト
http://www.buddhahead.org/writing/features_121897.htm
「Asian Inmates Still Fear Attacks in Integrated Jails」
 -拘置所内で攻撃を恐れるアジア人囚人
http://articles.latimes.com/2004/feb/08/local/me-asians8
 -ちなみにこの「チカーノ対東南アジア人」を、白人の老人の監督作らしく大雑把ながらもかなり適切と思われる形で描いていたのがクリント・イーストウッド『グラン・トリノ』(2008)だった。他民族のギャングには臆病に距離を取って接し、自民族の気弱な顔見知りには執拗にたかるというそのギャング描写には、本物のギャングたちは納得しないかもしれないが、そうでないものにはかなりの説得力があった。
 
・21世紀
・「フローレンシア-13対イーストコースト・クリップス」
「LA Gang F13 Accused of Targeting Blacks」
 -「According to the indictment, F13’s leader, Arturo Castellanos, sent word in 2004 from California’s fortress-like Pelican Bay State Prison that he wanted his street soldiers to begin “cleansing” Florence-Firestone of black gangsters, notably the East Coast Crips, and snitches.」
 -「Authorities say there were 20 murders among more than 80 shootings documented during the gang’s rampage in the hardscrabble Florence-Firestone neighborhood, 」
 -「But eliminating the gang won’t be easy. It’s survived for decades and is believed to have about 2,000 members.」
https://www.foxnews.com/printer_friendly_wires/2007Dec30/0,4675,GangTakedown,00.html
「Final Defendant in RICO Indictment Targeting East Coast Crips Street Gang Pleads Guilty to Federal RICO and Narcotics Offenses」
 -「The ECC gang is believed to have approximately 850 members and is comprised of multiple “sets.” 」
https://www.justice.gov/usao-cdca/pr/final-defendant-rico-indictment-targeting-east-coast-crips-street-gang-pleads-guilty
「Ten Defendants in Largest-Ever Federal Gang Case Found Guilty of Racketeering, Narcotics Charges」
https://archives.fbi.gov/archives/losangeles/press-releases/2009/la011209usa.htm
「Gang rivalry grows into race war」
 -「“ ‘Any black, shoot on sight?’ — it’s not true. Nobody likes a racist person.”」
 -「Like many black and Latino gangs, they ignored each other during the worst gang years of the late ‘80s and early ‘90s. Instead, they focused on attacking rivals of their own race.」
 -「The Mexican Mafia “didn’t understand how it worked,” he said.」
 -「In 1996 tensions erupted when members of a gang associated with East Coast Crips, known as the 6-5 Hustlers, killed a Florencia member.」
https://www.latimes.com/archives/la-xpm-2007-oct-18-me-firestone18-story.html