ギャング・パンカット/フィリピン
 
 
 
 
 
 
 
 
・始めに
・フィリピン
 ・簡潔なフィリピン「侠客」伝
 ・プリズンギャング「パンカット」
  ・シグ・シグ対OXO 
  ・歴史
   ・起源
   ・1960年代-ギャングたちの闘技場
   ・パンカットの「自治政府」
  ・個々のパンカット説明
  ・タトゥー
 ・ストリートギャング
  ・バハラ・ナ・ギャング
   ・その起源についての考察
  ・トゥルー・ブラウン・スタイル・13
  ・クラトン・バレレン
  ・その他小規模犯罪組織
・アメリカのフィリピン人ギャング
 
 
 
 
 
 
 
・始めに
 最初はアメリカのフィリピン系ストリートギャングについて描く予定だったが、ついでにフィリピン本国のギャングについても調べ、結局こちらがメインになった。紙の文献にはほとんど当たっていないうえにタガログ語が読めないので詳細な解説はできないが、大まかな流れ程度はつかめるようにしたつもりである。

 本文はまず第一に、
 フィリピン大学のグティエレス教授による論文
https://pdfs.semanticscholar.org/656c/dd9f286bcce424f8448ba86ec3cb51680a18.pdf
 そして次に大学ディリマン校のアッシュバーン氏のアジア・スタディーズ誌の論文
http://www.asj.upd.edu.ph/mediabox/archive/ASJ-03-01-1965/Ashburn.pdf
 を非常に参考にしたので、より詳しく知りたい人には、この二つがまずおすすめである。
 オーストラリア国立大学のクラーク・ジョーンズ氏も、2014年にこの題材について書いている。
https://research-repository.griffith.edu.au/bitstream/handle/10072/340307/473-1458-1-PB.pdf?sequence=1
 加えて藤野眞功著「バタス――刑務所の掟」も、1980年代後半から2000年代前半のモンテンルパ市刑務所内でスプートニクのコマンダーをやっていた「大沢努」の伝記であり、フィリピンのパンカット世界を内側から詳しく知ることのできる貴重な文献である。フィリピンのギャングに興味を持つ人には是非一読をお勧めする。
 
  
 
 
 
・フィリピン
 フィリピンは1億の人口を抱える東南アジア屈指の大国である。
 パンカット(組織)と呼ばれるプリズンギャングが強く刑務所内では一応まとまっているようだが、娑婆では大きく統率のとれた動きは見られず個々のシガ(強面)が各々のバランガイ(バリオ)を仕切っている状態であるという。
 ストリートギャングはマニラ都市圏、特にトンド地区で活発に活動している。
 
 
 
・簡潔なフィリピン「侠客」伝
 歴史的に有名なギャング系犯罪者としては、
 
・1939年にアメリカから移住し、戦後はマルコスに取り入って成功、日本とも関係した賭博師テッド・ルーイン
・1940年代のトンド地区で義賊として名を挙げたアシオン・サロンガ
・1950年代を通して政治家や警官を多数殺害し、アミュレットをお守りとして数々の銃撃戦を生き抜いたナルドン・プティク
・1950年代にシグ・シグの殺し屋として獄中でOXOと戦ったベイビー・アマことマルシラ・アマ・ぺレス
・1960年代前半のマニラでマフィア的に暗躍したバハラ・ナ・ギャングのボーイ・ゴールデンことアルトゥーロ・ポルクナ
・1980年代前半妻を警官にレイプされたと信じて警官7名を殺したベン・タンブリング

 などがいる。
 
 
 こういったギャングたちにはいまだにフォーク・ヒーローとして崇拝されている者も多く、例えば2013年にはチト・ローノ監督、ホルヘ・エストレガン主演でボーイ・ゴールデンの映画が作られている。

「簡潔なフィリピン「侠客」伝」参考文献
パブリック・エナミーの歴史
http://dokumentaryonijuantagalog.weebly.com/history-of-public-enemy.html
60年代の大物犯罪者たち
View story at Medium.com
高名な9人のギャングたち
http://www.filipiknow.net/famous-filipino-criminals-and-gangsters/
ナルドン・プティクについての詳細なwiki記事
https://en.wikipedia.org/wiki/Nardong_Putik
ベン・タンブリング
https://en.wikipedia.org/wiki/Ben_Tumbling
ボーイ・ゴールデン。当時の新聞記事あり。コメント欄にも更なる情報あり
http://video48.blogspot.jp/2010/06/beth-bautista-in-danny-zialcitas-hindi.html
ボーイ・ゴールデンの映画
http://www.imdb.com/title/tt3419966/
アシオン・サロンガ
https://en.wikipedia.org/wiki/Asiong_Salonga
バランガイ
https://en.wikipedia.org/wiki/Barangay
マルコス王朝
https://www.mail-archive.com/ctrl@listserv.aol.com/msg18253.html
 
 
 
 
 
・プリズンギャング「パンカット」
 フィリピン大学のフィロミン・カンダリザ-グティエレス教授によると、2016年時点でマニラの南に位置するモンテンルパ市のニュー・ビリビッド刑務所(以下ビリビッド刑務所)の囚人は、95パーセントが12のギャングのうちのいずれかに所属している。
 同刑務所は最高警備のマキシマム、中長期刑の囚人用のキャンプ・サンパギタ、軽微犯用のリヴィング・アウトとに分かれているが、矯正局の広報官によると理想の看守対囚人の比率は1対7であるのに、実際には1対68、書類仕事などの存在と三勤交代制であることを考えると、最高警備監房群ですら1対457という圧倒的な看守不足の状況にあるという。

 人口密度の高いフィリピンの刑務所においては犯罪者たちは刑務所当局から高次に独立しており、各雑居房(brigada)はそれぞれに市長(mayor)を持っている。
 彼らの中にはパンカットを家族そのものと感じるものも多いために、ギャングという否定的な言葉を忌避する傾向がある。
 また「コマンダー」と呼ばれる暴力的な家父長的指導者の指揮下にあって互いをTATAK(兄弟)とみなし、特に連合組織OXO系列はより平等を志向する傾向があるという。

 こういった状況でコマンダー、もしくはボスヨ(bosyo、ボスの転訛)と呼ばれるギャング幹部たちの評議会が刑務所内を取り仕切り、治安維持と引き換えに刑務所当局から与えられる様々な特権を享受している。
 2016年の議会での聴聞会では多くのギャング幹部が刑務所当局を腐敗させ所内での麻薬取引を有利に行ったことを認めたという。
 
 
・シグ・シグ対OXO 
 その中でも巨大な勢力はシグ・シグ・スプートニク、シグ・シグ・コマンド、OXO連合とその参加組織バタン・シティ・ジェイル/BCJなどである。
 2011年の時点で3万6千人の人口を抱えるビリビッド刑務所、さらにその中にあって1万2千人以上を収容する最高警備監房群では、プレシディオ棟側にシグ・シグ二派とバハラ・ナ、ハッピー・ゴー・ラッキー/HGLの計4ギャング、カーセル棟側にOXOの他BCJ、バタン・セブ/BCなど計8ギャングが陣取りにらみ合っている。

・プレシディオ(軍)棟
シグ・シグ・スプートニク
シグ・シグ・コマンド
ハッピー・ゴー・ラッキー
バハラ・ナ
   対
・カーセル(矯正)棟
ジニュワイン・イロケーノ・ギャング
バタン・シティ・ジェイル
バタン・セブ
バタン・サマル-レイテ
ビコル・リージョン・マスベート
バタン・ミンダナオ
バタン・マナラロ
OXO

 プレシディオ棟のスプートニクス、コマンドス、バハラ・ナはタガログ語系であり、唯一HGLだけがOXO連合から拒絶されたイロンゴ語系の者たちである。
 一方のカーセル棟は、古豪OXOを中心としたヴィサヤ語系少数民族の連合体となっている。
 
 
 
 
 
・歴史
・起源
 1865年に建設されたビリビッド刑務所は1000人程度の収容能力しか持たない比較的小規模な施設であったが、1930年代後半に改築されて3000名の収容能力と551ヘクタールもの敷地を持つ広大なものとなる。
 第二次世界大戦の日本占領時には捕虜収容所として使われ、英米兵のほかに女スパイクレア・フィリップスや後の上院議長ジョビート・サロンガなども抗日運動により収監されていた。

 
 米比連合軍の日本軍との戦争は熾烈を極め、特にマニラ市街戦での被害はフィリピン市民の死者10万人をゆうに超える甚大なものであった。
 しかしこの第二次世界大戦において侵略者である日本軍と戦った経験はフィリピンの民衆に民族的奮起を促し、1946年の独立も伴って戦後におけるナショナリズムの高揚につながった。
 多民族国家フィリピンにおいては刑務所内の囚人たちもこの変化を敏感に感じ取り、各々の出身民族/地域への帰属意識を高めていくこととなった。

 こうして言語と民族によって複雑に分断されたプリズンギャングが成立していくことになる。
 1940年代後半の当時ビリビッド刑務所では、田舎の南部諸州出身のヴィサヤ語系は都会的なマニラ出身のタガログ語系から抑圧されていると感じていた。
 2017年現在まで語られているところによると、彼らには自衛の必要があったという。

 そこでまずヴィサヤ語話者のフレッド・モロがOXO(オリジナル・エクス-コンヴィクト・オーガナイゼーション)を結成する。

 その後1951年にOXOに対抗するために、マニラのタガログ語話者がバボン・ロク(Babong Roque)をリーダーとしてシグ・シグを結成する。
 ギャング名はバボンの喧嘩の前の口癖がSigue Sigue Lang laban tayo(たった一発で「追う/行く(Sigue)」?)だったことに由来するという。
 
 
 その後は両ギャングともにメンバーを順調に増やしていき、例えばシグ・シグは1957年にシグ・シグ・スプートニク、シグ・シグ・コマンド、おそらくは別の年にシグ・シグ・プソ(心臓)などの多くの分派を生んだ。
 一方OXOは、おそらくは一種の連合体として、数々の少数民族ギャングをその傘下に取り込んでいく。

 ギャングはそれぞれに役割分担があって、例えばスプートニクスは塀の外の看守に向かって刑務所内の残飯を袋に包んで投げ込む係であり、その姿がスプートニク衛星の打ち上げのようだと評されたことから名付けられたという。残飯を受け取った看守はそれを自分たちの農場で飼っている豚の餌にしたという話である。(刑務所内へ外から差し入れを投げて渡す様がスプートニクに似ていたという話も見たことがあるが、外から投げる様子を刑務所内部の人間が見ることは難しいと思うので違うだろう)。
 またシグ・シグ・コマンドはアルトゥーロ・バリンビン(Arturo Balinbin)ほか22名のメンバーによって結成され、当初は22・コマンドスと称していたという話もある。
 
 
・1960年代-ギャングたちの闘技場
 両者は1960年代には刑務所暴動に乗じて互いに争いあい、他州の刑務所にも拡張、その抗争は敵メンバーの斬首など酸鼻を極めた。

 1958年2月16日にシグ・シグが暴動を起こしてOXOを襲撃すると、2日間にわたって9名を殺害して刑務所のみならず一般社会にまで衝撃を与え、後に囚人間で「神無き2日間」と呼ばれることになった。
 
 
 フレッド・モロは1964年にガソリンスタンドを強盗中に警官に射殺され、バボン・ロクは1969年トンド地区にて、おそらくは自分の部下に殺害されている。

 しかし彼ら2人の作った組織はプリズンギャングの成功モデルとなり、追随する多くのギャングを生んだ。

 最も重要な地域別では、北ルソン出身者のジニュワイン・イロケーノ・ギャング/GIG、ビコランディア出身者のビコル・リージョン・マスベート/BRM、セブ島出身者のバタン・セブ/BC45(45口径を愛用したことから)などが結成されていった。

 犯罪者たちは出身市の留置場にも帰属意識を持っていたために、ダコ・ヴィレガス(Dako Villegas)設立のバタン(若い)・シティ・ジェイル/BCJ、バタン・マナラロ(勝利)、バタン・ミンダナオ(ムスリム系)なども登場してきた。

 このころにはストリートギャングも刑務所内で力を持ち始め、ハッピー・ゴー・ラッキー・ギャング/HGL、バタン・サマル-レイテ/BSL、バタンガス・ラグーナ・ケソン・ギャング/BLQ、そしてバハラ・ナ・ギャングなどが頭角を現してきていた。

 こういったギャングたちは様々な性質を持ち、例えばバタン・マナラロは獄中では脱獄のみに専念して娑婆ではすりや詐欺程度しか行っていなかったという。
 
 
 
・ギャングの「自治政府」
 1958年にシグ・シグがOXOの9名を殺害する事件が発生すると、その後の裁判において最高裁は劣悪な環境の刑務所においてはギャングの結成は必然的であると認定、容疑者14名への死刑を終身刑へと減刑した。

 その後囚人は増加の一途をたどるが、矯正局は十分な予算を獲得できずに既存の収容施設は予定収容人数を大幅にオーバーし、その居住環境も悪化していく。
 この刑務所環境の変化はかねてからの政府の放任主義をも悪化させ、国家が刑務所の運営責任を半ば放棄するとギャングたちはさながら小さな自治政府として機能していくようになった。
 前史としてフィリピンではそもそもアメリカの統治時において、刑務所当局はその運営に協力的な囚人を使っており、彼らは伍長から少佐(major)にまで格付けされていた。こういった高位の囚人たちがその後やがて雑居房(brigada)の房長(mayor)へと横滑りしていったと思われる。

 こういった状況下で新たなリーダー候補として目を向けられたのが、学生運動などによって収監されていた政治犯だった。
 1972年にマルコス大統領の発した戒厳令によって増加した彼らは高等教育を受け読み書きができるために、数百万人の文盲者を抱えるフィリピンの貧困層が集まる刑務所においては行政官として重宝されるようになっていく。
 こうして凶暴さと無慈悲さがボスヨの資質であることは変わらなかったが、1970年代からは「知識人」と呼ばれる交渉と行政にたけた人々が要職を占めるようになっていった。
 それに加えて1980年代からは金もうけがうまいことも資質として求められるようになっていき、1990年代にはついにボスヨの地位を金で買うような「スーパー・リッチ」も登場したという。

 こうした新世代の例としては、シグ・シグ・コマンドスの2010年代のボスジェイビー・セバスチャンは大学中退者であり、「バタス 刑務所の掟」の大沢努は一種の政商をやっていた人物である。
 ちなみに同書によると、1990年代初頭には刑務所内にも日本帰りのフィリピーナによって覚醒剤(Shabu/シャブ)が持ち込まれ、たちまちに囚人たちを虜にしたという。

 この変化に伴い暴動も減っていき、1989年のバハラ・ナ対HGLが最後の大規模なギャング暴動になったといわれている。
 
 
 
・個々のギャング説明
・シグ・シグ・スプートニク
 主流派のタガログ語系プリズンギャングであり、1969年と2012年に行われた調査では共に最大勢力であった。
 フィリピンの刑務所では最も組織化されたギャングであり、自らが縄張りとみなすマニラへと「侵略」してくるヴィサヤ語系に対して敵愾心を抱いている。
 KAUTUSANと呼ばれる十の掟を持っているという。

 おそらくは設立者であると思われるバボン・ロク以後のコマンダーは不明だが、1975年のGIG襲撃についての公訴状はボーイ・カマティスことジェネロソ・デュンガを幹部として確認している。
(「バタス」に出てくる1993年時点の長老「ボーイ」との関係は不明)。
 その後「バタス」によると、1980年代後半からビリビッド刑務所本部のコマンダーはまず「グラン」から、次に武闘派の「アマド・ブアン」(おそらくはAmado Ateinza)へと移り変わっていったという。
 残忍なアマドは10年以上その地位を維持し、リード・ユナイテッドFCについての本「Leeds United: The Second Coat」では獄中で彼と親しくなった「ビル」によって、彼がリード・ユナイテッドFCのサポーターズクラブに入りたがっていたという話とともに、ロシアン・ルーレットによって15人を殺害したという話も語られている。

 アマドは理由は不明ながらもその後おそらくは2000年代中盤か後半にコマンダーを退いている。
 2014年時点のコマンダーはリカルド・「チャチャ」・カマタが務めており、看守を買収して入った病棟にて女優のクリスタ・ミラーと密会していたことが報道されている。幹部にはディオニシオ・ジャモレス(Dionisio Dennis Jamores)がいるが、2012年に賭博のいざこざで射殺されている。

 その後に就任したコマンダーであるジョエル・カポネスは2016年の議会公聴会にて、レイラ・デ・リマ上院議員が司法省長官であった時に麻薬がらみの金を受け取っていたと証言している。

 一方キャンプ・サンパギタの同時期のコマンダー系譜は、やはり「バタス」によると、ジェシー・ネリー、大沢努、ヴィクトール、ラメル、「アルネル」ロドリゴ、ウーニン・ララである。
 
 
 
・シグ・シグ・コマンドス
 アルトゥーロ・バリンビン(Arturo Balinbin)ほか22名のメンバーによって結成され、当初は22・コマンドスと称していた彼らを1957年以降にシグ・シグが取り込んだものであると思われる。

 別の説では、フランクリン・アッシュバーンによると、1940年代後半にルソン島パンパンガ出身者らによって原型が組織された。
 タガログ系ながら田舎者の集まりであり、マニラに来るとそこでおそらくは都会派ギャングの派閥である「マニラ・ボーイズ」と対立し一時はOXOと反スプートニク戦線を張っていたこともあるという。またギャング名は映画の”The Commandos”からとられたという。
(上記映画The Commandosは、もしリー・ヴァン・クリーフ主演のイタリア映画のことであれば1968年作品であり、いささか遅すぎるのではないか。それ以前はなんと呼ばれていたのだろうか)。

 いずれにせよ1965年の時点ではシグ・シグ・コマンドを名乗っているために、タガログ語系のスプートニクに組したのではないかと思われる。
 スプートニクとは主に出身地の違いによって一線を画した存在であり、同盟を組みながらも長い対立の歴史をも持っている。
 
 
 2010年代前半のリーダーはジェイビー・セバスチャンであり、ドキュメンタリー・チャンネルの「Inside The Gangster Code :The Commandos」にも登場している。2016年には対立ギャングに襲撃されたほか、刑務所内の麻薬汚染について議会で証言している。
 
 
 
・OXO
 やはりタガログ系のマニラ出身者による嫌がらせに対抗するために1950年代に結成された。

 ギャング名のオリジナル・エクス-コンヴィクト・オーガナイゼーションはおそらくはこじつけであり、起源には諸説ある。
 海賊旗のように骸骨二つに交差した骨を意味するか、もしくはタガログ語でOOはイエスを意味するのでそこにXを入れることでノーを意味し、反タガログ系の姿勢を明確にするものだというものである。
  
 

・バハラ・ナ
 マニラ・ボーイズにオロンガポ市及びビコル地域の出身者が加わる形で、1956年にシグ・シグ対OXOの緊張の高まりを受けて団結し「結成」された(ストリートギャングのバハラ・ナの項にて異説を考察)。
 タガログ語系勢力の一員でありながらも独立性を保っている。
 
 
 
・タトゥー
 マニラの写真ブログMY SARISARI STOREが2008年ごろにマニラ・シティ・ジェイルに取材し所内の
シグ・シグ・コマンドス、シグ・シグ・スプートニクス、BCJ、バハラ・ナらのメンバーを撮影、「フィリピンのギャング・タトゥー」と題してブログ記事を公開してくれている。
 それを見るとギャングはそれぞれにシンボルやモットーを持ち、褐色の肉体に彫りこんで所属組織を誇示しているようである。
 
 
 主なものとしては

・シグ・シグ・コマンドス
 SSC、黒豹、Alegre(幸福。単なる彫り師名?)、Do or Die、三つの点など。

・シグ・シグ・スプートニクス
 SSS、左耳が下に折れ曲がったバグス・バニー、スプートニク衛星、五つの黒点など。またアッシュバーンによると、尻に「TATAK」と入れることもよくあるという。

・バタン・シティ・ジェイル
 BCJ、両耳が下に下がったラビット、32、四つの点など。

・バハラ・ナ
 BNG、クエスチョン・マーク、ヴァイキング、一つの点など。

 がある。
 人の顔、スローガン、どくろなどの汎ギャング的意匠が多く、たまに中国風の竜やカートゥーン・キャラクターも見かける。
 アメリカの影響を受けたラテン/チカーノ的なものが多いが、おそらくは刑務所内で入れたもののためか全体的には稚拙な印象を受ける。
 こういった中で興味深いのはカラフルなグラフィティ風のものである。この種のものは米国のチカーノ・ギャングにはほとんど見られないのではないか。

http://my_sarisari_store.typepad.com/my_sarisari_store/gang-tattoos/
http://my_sarisari_store.typepad.com/my_sarisari_store/gang-tattoos/page/2/
http://my_sarisari_store.typepad.com/my_sarisari_store/gang-tattoos/page/3/

 またこの記事では南部フィリピンで誘拐を稼業とするペンタゴン・ギャングについても少し触れている。ムスリム・ゲリラ崩れだという。
 
 
 
「プリズンギャング」参考文献
「プリズンギャングの議論」おそらくは最も簡潔で詳しい記事
https://philippineprisons.wordpress.com/2011/07/07/prison-gangs-a-discussion/
2012年にフィリピン社会学レビュー誌に載ったグティエレス教授のパンカットについての論文。本格的に知りたいなら非常にお勧め。本文の大半が上記記事とこれに依拠し、ありがたいことこの上ない
https://pdfs.semanticscholar.org/656c/dd9f286bcce424f8448ba86ec3cb51680a18.pdf
フィリピン大学ディリマン校のアッシュバーン氏のアジア・スタディーズ誌の文章。アジア・スタディーズ誌は1983年創刊のようだが、文自体は1965年のものなので、おそらく再録だろう
http://www.asj.upd.edu.ph/mediabox/archive/ASJ-03-01-1965/Ashburn.pdf
クラーク・ジョーンズのプリズンギャングについての論文
https://mafiadoc.com/philippine-prison-gangs-control-or-chaos-pdf-download-available_59b4ba8e1723ddd6c65c9a57.html
CNNフィリピンのプリズンギャングについての記事
http://cnnphilippines.com/news/2016/10/15/Prison-gangs.html
なんとスプートニクスのフェイスブック・ページ。本物かどうかは不明
https://www.facebook.com/pg/5BALLS/about/
ニュービリビッド刑務所
https://en.wikipedia.org/wiki/New_Bilibid_Prison
http://www.bucor.gov.ph/facilities/nbp.html
ギャング文化
http://www.gmanetwork.com/news/news/nation/393125/gang-culture-part-of-a-long-standing-system-in-bilibid/story/
プリズンギャングの「必要性」
http://edition.cnn.com/2014/12/11/world/asia/philippines-prison-gangs-reform/index.html
ボーイ・カマティス
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:Ep6GlKl7lUAJ:www.lawphil.net/judjuris/juri1987/jun1987/gr_l_48642_1987.html+&cd=1&hl=en&ct=clnk&gl=jp
ジャモレス射殺
http://www.gmanetwork.com/news/news/metro/257809/new-bilibid-prison-gang-leader-shot-dead-by-irate-inmate/story/
「チャチャ」・カマタ
http://www.manilatimes.net/3-prison-officials-face-raps-drug-lords-vip-treatment/122585/
デ・リマ上院議員
http://www.malaya.com.ph/business-news/news/convict-says-he-handed-drug-money-de-lima
ジェイビー・セバスチャン
https://en.wikipedia.org/wiki/Jaybee_Sebastian
デ・リマについて証言した4人は何者か
http://news.abs-cbn.com/focus/10/10/16/who-are-the-4-bilibid-kings-testifying-in-drug-probe
また前述のようにフィリピン本国のプリズンギャング、特にスプートニクについては、邦文献では藤野眞功著「バタス――刑務所の掟」が非常に詳しい。日本語どころか英語ですら貴重なパンカットについての本で、スプートニクのコマンダーとなった「大沢努」に取材した内容をまとめたものである。同種の獄中記には「檻の中の闇―フィリピンで死刑囚になった日本人の獄中記」もある
 
 
 
 
 
・ストリートギャング
 フィリピンの都市化が盛んになった1950年代からトンド地区で多くのギャングが結成されてきた。

・バハラ・ナ・ギャング
 タガログ語のバハラ・ナは英語で言うところのCome What May、Anything goes、つまり「何でも来い」の意味であり、その名を冠する彼らは2017年現在もフィリピン有数のプリズン/ストリートギャングである。
 クエスチョン・マークをシンボルとしている。

 
 バハラ・ナ・ギャングの起源については三つ説がある。
 通説では、1956年にマニラ出身者によってシグ・シグ対OXO抗争のさなかに始まった。
 次の説では、1940年代初頭に刑務所内で始まった。

 最後の説は、ダイヴァイノ・タラスタスが結成したというものである。
 1920年代前半に生まれた彼には、「エモン」というあだ名の兄弟がいたのだが、札付きの不良少年だったエモンは、15歳の若さにして警察に射殺されてしまう。
 その後ダイヴァイノは1940年代前半に、兄の死後その空白を狙って地元サンパロックに進出してきたシグ・シグと戦い、集まったギャング名は地元のバー「バハラ・ナ」からとられた。
 参加条件がないに等しかったために大勢の者が集まりやがてフィリピン中に広まっていった。
 ダイヴァイノはその後犯罪者の人生を送ったために、おそらくは抗争に巻き込まれることを恐れて、1980年代初頭に殺されるまでこの秘密を少数の者にしか明かさなかったというのである。
 
・起源への考察
 後者二つの異論はいずれも1940年代前半に起源を求めているが、どちらにも難点がある。
 ダイヴァイノ説の難点は、シグ・シグが1940年代初頭に存在したのか、そして娑婆にまで手を伸ばせるほど強力な存在だったかである。承知のように1940年代前半のフィリピンは日本軍の侵攻によって混乱状態にあり、この時期のストリートでの争いはどうも想像しづらいのである。
 時期が10年ずれていればある程度は納得できる。

 「1940年代初頭に刑務所」説の方が納得しやすい。
 第二次大戦中のプリズンギャングたちの苦難としては、ロシア・マフィアの一派でスターリンの対独戦争に協力したためにスーカ(雌犬)と呼ばれた人々が思い出されるが、同時期のフィリピンの刑務所内でも、娑婆の戦火をわき目に何らかの苦悩があったと推測される。
 しかしその一方で、今もって強力な存在であるバハラ・ナが、もしこの時期に生まれていたなら、プリズンギャング創生期においてシグ・シグやOXOに後れを取った理由がわからない。

 他の説では、シグ・シグ、OXO、バハラ・ナすべての起源を1940年代前半としている。
 これはにわかには信じがたいが、この時期ビリビッド刑務所は日本軍の連合軍兵士収容所として使われており、より洗練されたギャング文化を持つ彼らと元からいた囚人たちの間に何らかの接触があった可能性はあるだろう。
 コマンドスの結成には1940年代後半から服役しているルソン島パンパンガ出身者が参加したというので、他のギャングにも戦時中からの囚人が参加した可能性は高い。

 関連してOXOの結成を1956年とする説がある。前述のアッシュバーンがこの説を囚人から聞いている。
 この説をとるなら、シグ・シグ本体は1950年代中盤にはあったが、1957年10月のスプートニク衛星打ち上げ以降に「再結成」され、その時にスプートニクを付け加えた、と理解できる。それとも当時はスプートニクは正式名称ではなく、俗称が自然と定着しただけかもしれない。

 いずれにせよ最初にヴィサヤ系のOXOが結成され、その後態度を強硬にしたタガログ系が(シグ・シグ)スプートニクを結成したという流れには変わりない。
  
 バハラ・ナに戻すと、彼らが1956年にシグ・シグとOXOの対立のさなかのビリビッド刑務所に存在したのは間違いのないところである。以前の彼らにどのような経歴があったにせよ、1956年を「結成」の年とみてよさそうである。
 
 
 バハラ・ナは前述の伝説のギャングボーイ・ゴールデンもメンバーであったという。
 1960年代後半にはサンフランシスコにも支部を作り、北カリフォルニアの諸都市に拡大、サウス・レイク・タホー市では1993年にサウスサイド・13と抗争している。1980年代中盤からは南カリフォルニアにも進出したと思われる。
 
 
 
「バハラ・ナ」参考文献
バハラ・ナ
https://en.wikipedia.org/wiki/Bahala_Na_Gang
https://www.urbandictionary.com/define.php?term=Bahala%20Na%20Gang
デイヴァイノの血縁者と思われるトトイ・タラスタスの文

サウス・レイク・タホー
http://articles.latimes.com/1993-03-14/news/mn-907_1_lake-tahoe
 
 
 
・トゥルー・ブラウン・スタイル・13
  TBS・13、ヴェラ・インディオ・イスティロとも呼ばれる彼らは、一説ではサンディエゴで結成され、犯罪者移送によって本国にも広まったという。
 一方もう一つの説では、ニューメキシコの女性ギャングトゥルー・ブラント・シスタズ-13が1991年にフィリピン本国へと進出したが、彼女らは一年もしないうちにアメリカへと帰ってしまい、残された現地メンバーが、ケソン市のショッピング・モールであるロビンソンズ・ガレリアをたまり場としていたドン・ルーカスなどの男をメンバーとして受け入れたのが始まりであると言われている。

 こうして加入した新参メンバーは、アメリカのギャング事情を理解しなかったためにサレーニョスを名乗らず、ガレリアの勢力はブラッズ、マカティ市の勢力はクリップスを名乗るようになっていく。
 1995年までにはトンド地区にも進出しソリス・トゥルース、ブルメンティット支部などを設立した。
 こうして男性メンバーが増えたために1996年にはトゥルー・ブラウン・スタイルへと改名し、現在ではクリップス/ブラッズを名乗ることも少なくなっているという。
 とはいえ、「Inside The Gangster Code」ではブラッズを名乗っているセットが出てくるが、フィリピンでブラッズを強硬に貫く意味は薄いだろうから上記の話とは矛盾しない。むしろ気になるのは「13=サレーニョス」をどうとらえているかである。

 2010年代前半にはストリートのボスはOG・モジョなどであり、刑務所ではOG・ローレンスがバハラ・ナの陰に隠れて活動しているようである。
 また近年はアブロク強盗団とも親しく、トンド地区のホセ・アバド・サントス大通りで活発に活動しているという。
 
 
 
・クラトン・バレレン
 1986年に軍の肝いりによってオクタヴィオ・「オングコイ」・パロジノグが結成した反共民兵団から始まった組織であり、1988年に軍に解散させられた後は犯罪組織への道を突き進んだ。
 ラウィスのロビン・フッドとまで評されたパロジノグは1990年に警察に殺害されるものの、仲間は後に関係者を殺害し返して仇は討ったと信じられている。
 1995年にケソン市での銀行強盗の際に行った警察との銃撃戦で一躍有名となった。

 ミンダナオ島北西部のオサミス市で強い影響力を持ち、その支配地域では、アブ・サヤフすら自由には活動できないという。
 血縁関係によって強い団結力を持つ彼らは、他の東南アジア諸国のほか、中東にまで支部を持つと言われている。
 
 
・その他
 クリップスは1995年以前に結成されたとみられる。バコロド・アンダーグラウンド・クリップスなどがあるという。
 ブラッズは2000年ごろにそれぞれLA、カーソン・シティ、ジャージー・シティのブラッドがマニラに来て設立したのが始まりである。その後も米国からの逃亡者や送還者が相次ぎ、2002年には別の7名が覚醒剤の製造方法を習いに来たこともあったという。
 
 
 そのほかにもギャングもしくはギャング的組織としては、

・ウエストサイド・アイランダーズ/WSI
・貧困層の互助組織的なウォッチ・ドッグ・コミッティー、
・フィリピン大学で1968年に結成されたフラタニティー組織タウ・ガンマ・ファイとサント・トマス大学で1973年に結成されたアクロ/アルファ・カッパ・ロ
・MS-13

 などが活動しているという。
   
 
 また、カナダのインディペンデント・ソルジャーズの幹部ジェームス・ライアックが、フィリピン人のバリー・エスパディラとトリスタン・オラゾの助けによって、2011年からの抗争を逃れてフィリピンに渡って来ている。
 シナロア・カルテルからの麻薬供給を受けてそれを売りさばいていたが、中国人グループの半値で売っていたので、客を奪われた彼らの反感を買っていたために、おそらくは密告によって逮捕されている。
 
 
・その他小規模犯罪組織
・アクヤット・バハイ
Akyat=登る、Bahay=家。家屋専門の強盗団と思われる。

・ドゥゴ・ドゥゴ
Dugo=血。家政婦を騙して押し入る詐欺師的な窃盗集団。

・ブドル・ブドル
ブドル=Budol=Boodle=金。ひったくりを得意とする窃盗集団。

・ブンドル・ブンドル
Bundol=当てる。車を使った当たり屋の一種。

・ブカス/バサグ・コッツ
Bukas=開ける、Basag=壊す、Kotse=車。車上荒らし兼車泥棒。

・サリシ
Salisi=忍び寄る。すりとひったくり。

・マルティリョ
Martilyo=ハンマー。宝石店強盗。

・イピット・タクシー
Ipit=ニッパー。タクシーを装って乗客を襲う強盗団。

・ドーナット
Donut。タイヤを狙う強盗団だという。
 
 
 
「ストリートギャング」参考文献
フィリピン人のギャング
https://ja.scribd.com/document/40637342/Filipino-Gangs-in-the-Philippines-and-Worldwide
フィリピンのMS-13
https://ja.scribd.com/document/41576733/Salvadorian-MS-13-Gang-in-Philippines
語られざるTBSの歴史
http://gustavochavezs.blogspot.jp/2012/04/
https://www.urbandictionary.com/tags.php?tag=vera%20indio%20istilo
TBSの写真など
http://www.bulgarianphotographynow.com/en/Portfolio/manila-gangs
タウ・ガンマ・ファイ
https://en.wikipedia.org/wiki/Tau_Gamma_Phi
https://gangsallabout.blogspot.jp/2012/10/tau-gamma-phi.html
アルファ・カッパ・ロ
https://en.wikipedia.org/wiki/Alpha_Kappa_Rho
犯罪組織
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:5SOKjpejAm4J:www.aneking.com/gangs-in-the-philippines/+&cd=6&hl=en&ct=clnk&gl=jp
ブンドル・ブンドル
https://www.carmudi.com.ph/journal/adding-props-is-the-new-modus-operandi-of-bundol-bundol-crooks/
ジェームス・ライアック
B.C. gangsters had $2.4M worth of drugs when they were arrested in late-night raids in the Philippines: police
バギオのギャングたち
https://digitalchain.wordpress.com/2007/12/07/what-gangs-are-in-baguio/
 
 

 
 
・アメリカのフィリピン人ギャング
 クリップス/ブラッズ、あるいはサレーニョスの一員として活動することが多いが、あまり熱狂的な忠誠心は持っていないとの評判である。

・歴史
 1920年代にセントラルLAのダウンタウン西側で結成された古参ギャングヴァリオ・テンプル・ストリート/TSTは、当時からフィリピン人街の周辺を根城としており、結成当初からフィリピン人のメンバーが多かった。
 その後TSTは南カリフォルニア中心に順調に拡大を続け、1972年にはフィリピン人主体のサタナス(STS=エセ・テ・エセ)が、最初はカー・クラブとして、後には独立したギャングとして枝分かれすることになった。
 TSTは1970年代~1980年代初頭には支部としてピノイ・ロコスも結成し、犯罪者送還によって送り返されたフィリピン本国では、母体のTSTをしのぐほどに勢力を拡大したという。

 サタナスは1980年代中盤にウエストサイド・バハラ・ナ・ギャング(ブラッズ)と抗争している。

 LAのアットウォーター・ヴィレッジでは、1980年代初頭にピノイ・レアル・ギャング(PRG、レアルはスペイン語のロイヤル)が結成され、トゥーナーヴィル・ライファ、TSTなどと抗争していた。

 そのほかにも南カリフォルニアではヘルサイド・モブ、インセーン・ディエゴ・モブ、ジェフロックス/JFX、マブハイ(万歳)・ピノイ・トレセ(MP13)、トレス・カントス、トロパン・フダス/THS、ユニーク・ボーイズなどが活動していた。

 サンフランシスコではバハラ・ナとその抗争相手LVM(ルソン、ヴィサヤ、ミンダナオ)、レアル・ピノイ・ブラザーズ(RPB、SFで80年代中盤に結成)、フリスコ・ボーイズ、ウガット・バナル(ブラッド・ブラザー)、シンタ・セブン、シグ・シグ・スプートニク支部などが存在した。

 サンディエゴでは1988年ごろにビー・ダウン・ボーイズ/BDBとダ・ボーイズが抗争しており、その後はBDB分派のアジアン・インセーン・ボーイズ・ブラッズとバハラ・ナ・バルカダ・クリップスが二大勢力として君臨しているという。

 NYでは1985年にウォッチ・ドッグ・コミッティーが自衛組織として結成され、1995年にはブラッズに転向して各地に拡散しているという。
 
 
 
「アメリカのフィリピン人ギャング」参考文献
テンプル・ストリート
http://www.streetgangs.com/hispanic/cityofla/central/templestreet
https://www.urbandictionary.com/define.php?term=TEMPLE%20STREET%2013%20GANG
テンプル・ストリート・ピノイ・ロコス
https://thehoodup.com/board/viewtopic.php?f=23&t=97908
サタナス
https://en.wikipedia.org/wiki/Satanas_(gang)
フィリピンギャングについての音声インタビュー。52分ごろから具体的なギャングについての話あり
Episode 3: Filipino American Gangs in SoCal – Where are you from and where are you now?
ピノイ・レアル
http://pinoyghetto.blogspot.jp/2008/03/pinoy-real-pr.html
フィリピン・ブラッズの歴史
http://www.streetgangs.com/billboard/viewtopic.php?f=287&t=53294
LAにおけるフィリピン系青少年とその文化
http://eaop.ucsd.edu/198/group-identity/Youth%20groups%20and%20youth%20savers%20-%20Gangs,%20crews,%20and%20the%20rise%20of%20Filipino%20American%20youth%20culture%20in%20Los%20Angeles.pdf
William Sanders「Gangbangs and Drive-Bys: Grounded Culture and Juvenile Gang Violence」サンディエゴのフィリピン系ギャングの歴史について記述あり

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