シカゴ・ストリートギャング/ブラック・P・ストーンズ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
・概要
・歴史
 ・黎明期
 ・BPSNとメイン・21
 ・フォートの独裁
 ・全盛期と凋落
 ・へアストンの反攻
 ・エル・ルークンズ
 ・崩壊
・各支部の概要
 ・ジェット・ブラック・ストーンズ
 ・ギャングスター・ストーンズ
 ・ジャバリ・ストーンズ
 ・ノー・リミット・ストーンズ
 ・タイタニック・ストーンズ
 ・ルーブナイト・ストーンズ
 ・ミッキー・コブラズ
 ・ラ・ファミリア・ストーンズ
 ・ブラック・P・ストーン・ブラッズ
・参考文献
 
 
 
 
 
 
 
・概要
 本文で詳細を述べるブラック・P・ストーンズもしくはブラック・P・ストーン・ネーション(BPSN)は、米国第2の都市であるシカゴにおいて、ギャングスター・ディサイプルズ、ヴァイス・ローズ、ラテン・キングスに次ぐ第4の勢力と目されているストリートギャングである。

 彼らBPSNは1966年の結成以降ジェフ・フォートの下で数千人のメンバーを擁しており、シカゴのウエストサイド及びサウスサイドの黒人街を拠点に麻薬取引を中心とした犯罪にかかわっている。

 ブラック・イスラームに傾倒し、その文化を黒人ストリートギャング界に持ち込んだ第一人者であり、ピープル・ネーション及びブラッズのブラック・イスラーム化に多大な貢献をした事でも知られている。そのPは主にピラミッドを意味し、「神の目」などのフリーメーソン的な象徴や掟も多く持っている。
 
 
 
 
 
・歴史
・黎明期
 20世紀のアメリカでは第二次世界大戦後から人種による居住地区制限が撤廃され始め、南部諸州で生まれた多くの黒人がより良い仕事と教育の機会を求めてシカゴ都市部に移住してきた。

 1944年生まれの「ブル」ことユージーン・ブルース・へアストンと、1947年生まれのジェフ・フォートもそういった南部生まれシカゴ育ちの世代であり、サウスサイドのウッドローン地区で育った2人は、急速に黒人街化が進むシカゴをつぶさに見てきた。
 
 
 自らのギャングを持つに先立ち、2人は後の巨大ギャング、ヴァイス・ローズ創設者たちとの血縁関係を持っていた。
 フォートはレナード・キャロウェイとボビー・ゴアを従弟にへアストンも同じく「ぺピロ」・ペリーを従弟に持ち、年長の彼らは2人にギャングの運営方法を教示していたという。
 これが後のピープル・ネーションのひな型の一つになった。

 1959年にはフォートはブラックストーン・アヴェニューにてブラックストーン・レイダース、へアストンはハーパーズ・ボーイズというギャングを10名ほどの仲間と立ち上げ、いがみ合いつつも共に各々の組織を拡大していったが1961年には共に逮捕されてしまう。

 セント・チャールズ少年感化院に送られた2人はそこで組織を合併することを決断し、ブラックストーン・レンジャーズが生まれることとなった。

 1962年に釈放された2人はまずデヴィッド・バークスデールのデヴィルズ・ディサイプルズとサウスサイド、特にエングルウッド地区の覇権をめぐって衝突する。
 ヴァイスローズ及びラテン・キングスと共同戦線を張って戦う中で名声を高め、1965年の時点で200名以上のメンバーを持つまでに成長した。
 
 
 
・BPSNとメイン・21
 1966年5月、数に勝るデヴィルズ・ディサイプルズとの抗争で劣勢に立たされたへアストンとフォートは、近隣の黒人ギャングたちに大号令をかけ、呼応したギャングたちとともにブラックストーン・レンジャーズを大連合「ブラック・P・ストーン・ネーション(BPSN)」としてあらためて組織しなおすことになる。
 
 新組織設立にあたって2人は、自分たちも含めてメイン・21と呼ばれる幹部たち(実際には21名以上いた)を選出し、連合の指導部として機能させようとした。
 
 メイン・21の第1グループは、ラマー・ベル、レイコ・クランショウ、「ブル」の弟リロイ・へアストン、殺し屋ローレンス・カイン、チャールズ・エドワード・ベイなどのようなヘアストンとフォートの側近たちであった。
 
 第2グループは連合に参加した外様ギャングのリーダーたちであり、現存するシカゴ最古の黒人ギャング、エジプシャン・コブラズのヘンリー・「ミッキー」・コグウェル、フォー・コーナー・ストーンズのハーバート・「サンダー」・スティーブンス、エリス・レベルズのメルヴィン・「レフティー」・ベイリー、キンバーク・キラーズのエドウィン・「カブー」・コドウェル、インペリアル・ラヴァーズのレオン・「ボー」・ヤング、ブラック・エレファンツのレオナルド・センガリとチェスター・エヴァンスなどがいた。
 
 第3グループにはリー・ジャクソンやウイリアム・スループのような熟練犯罪者、ジョージ・ローズやポール・マーティンのような年長の助言者などが選ばれ、経験豊富な彼らは犯罪組織としてのBPSNの成長に大きく寄与した。
 
 この「21のブリック(レンガ)からなるピラミッド」により、ギャングメンバー数は急速に増大し、1966年には1500名、1967年には3000名、1968年には一気に5000名にまで膨れ上がったとまで言われている。
 
 しかしフォートは連合内ギャングの共存を考えておらず、彼の統治においては目障りなものは次々に殺害もしくは降格させられていったという。
 
 
 余談であるが、後の1969年にフォートはシュープリーム・ギャングスターズのラリー・フーヴァーの勧誘に成功し、一時はギャングスター・ストーンズが結成されている。
 しかしBPSNでの待遇に不満を感じたフーヴァーは6か月で脱退を決意、フォートに忠誠を誓った幹部のホームズを残して去っていき、ブラック・ディサイプルズとの融合に活路を見出すことになる。
 
 
 
・フォートの独裁
 1966年6月6日、へアストンが麻薬がらみの罪によって刑務所に送られ、フォートは弱冠19歳にして頂点に立つことになる。
 それまではへアストンが最高位の「キング」であり、フォートはそれに次ぐ「プリンス」に過ぎなかったが、へアストンは刑務所内部からギャングをうまく操ることができずに、名目上のリーダーと化していった。一方フォートはへアストンの不在中に徐々に権力を簒奪、この静かなクーデターを正当化するために、ブラックストーン・レンジャーズはブラック・P(プリンス)・ストーン・ネーションとしての名前を強調していくことになる。
 イタリア人を嫌っていたヘアストンに対して、フォートはこの時期からヘロインの安定供給のためにミルウォーキーのマフィア、フランク・バリストリエリと関係を持っていたという(この話はchicagoganghistory.comより。後の1981年にジャズクラブにて両者の会談が行われている)。
 
 この時期にフォート派はへアストンの精神的指導者であったポール・マーティンを殺害し、へアストン派の権力奪回の芽を摘もうと試みる。
 
 へアストンは1968年に出所し、彼に忠実だったランディ・「ルーブ」・ディラードが組織していたタイタニック・ストーンズを率いてフォートから実権を奪い返そうとするが、デヴィルズ・ディサイプルズ4名への銃撃容疑によって再び刑務所に送り返されてしまう。
 
 
 
・全盛期と凋落
 フォートはカリスマ的な人間であり、その部下たちはフォートへの侮辱をけして許さなかったという。
 1968年にはサウスサイドの黒人街での麻薬取引に大々的に手を付け、その命知らずの部下たちは敵ギャングのみならず、イタリア・マフィアのアウトフィットにすら黒人街の活動をあきらめさせるほどであった。
 しかしフォートは連合内ギャングの共存を考えておらず、彼の統治においては目障りなものは次々に殺害もしくは降格させられていった。
 
 フォートの権力の裏にはブラック・パワー運動の熱狂があった。
 BPSNには貧困と社会的な不平等に憤った黒人青年たちが多く加入し、キング牧師暗殺の際にシカゴで起こった暴動では中心的な役割を果たしたといわれている。ヴァイス・ローズやBGDに比べても政治的志向の強い存在であり、赤いベレー帽にコンバット・ブーツを履くなどの革命軍的イメージを打ち出して、長老派教会のフライ牧師などの後援者も得た。
 しかしながら独裁者的だったフォートは他者との共存を望まずに、ブラック・パンサー党のイリノイ支部議長であったフレッド・ハンプトンと争い、自分の縄張りからパンサー党を追い出すことに成功している。
 
 1972年フォートは政府の職業訓練計画への援助金を着服したとしてまずステーツヴィル刑務所、後にリーブンワース刑務所に収監される。
 
 1970年代中盤~1980年代前半までは全米的にギャングの活動は低調であり、シカゴでもデヴィッド・バークスデールが死亡、ボビー・ゴアとラリー・フーヴァーが収監されるなどした結果、ギャングたちは衰退を余儀なく強いられていた。
 BPSNも幹部メンバーの殺害、長期収監、または引退によって世代交代が進み、フォート不在の間はコブラ・ストーンズのミッキー・コグウェルが指揮を執った。
 
 
 
・へアストンの反攻
 1974年仮釈放が近づいていたへアストンは、自分に忠実なタイタニック・ストーンズの者たちに号令をかけ、対フォート派への反攻作戦を練り始める。
 しかし結局仮釈放は拒否され、コグウェル及びベニー・フォートの率いるフォート派との小競り合いで弟のリロイまでもが刑務所に送られてしまう。
 その後タイタニック・ストーンズはウイリー・「ダラー・ビル」・ビブスが指揮を執るが、フォート派と和解し抗争はいったん終結する。
 
 翌年へアストンが出所するが、自らの組織を失った彼には少数の者しかついてこず、謎の二人組に銃撃されて負傷し、フォートの影響力の小さいノースサイドへと移っている。
 
 
 
・エル・ルークンズ
 1976年フォートは出所し、ミルウォーキーにてブラック・イスラームの一派アメリカのムーア人科学寺院(The Moorish Science Temple of America)へと改宗しようとするがこれを拒否され、自らの宗派「アメリカのムーア人寺院(The Moorish Temple of America)」を設立する。
 
 これに基づきフォートは新組織エル・ルークンズを組織する。
 ルークンとはアラビア語で基礎を意味し、その語源はメッカのカアバ神殿に座する黒石のことであるという。エル・ルークンズはムーア人科学寺院に影響を受けた7つの「神的憲法」の条項を中心に多くの規則を定め、従来のブラック・ナショナリズムとはかなり異なったものであった。
 
 
 フォートの改宗は真摯なものではなく、ただ自らのギャングを宗教組織に偽装しようとしただけであるといわれる。MSTAは黒人囚人への布教を熱心に行っており、フォートの「改宗」もその成果であったが、結局教団はフォートを制御できずに、教義とイデオロギーを盗まれただけだったのである。
 
 ともかく彼はBPSNにブラック・イスラーム文化を持ち込んだほか、自宗派への改宗および「イスラームの掟」を強要しようとするが、強制改宗は生まれつきキリスト教徒であった多くのものに拒否され、BPSNは大きくメンバーを減らすことになる。特に約1000名のメンバーを持つ最大のセット(二次団体)であったコブラ・ストーンズのミッキー・コグウェルに公然とこれを拒否されたことはかなり痛く、両者は険悪な間柄になっていった。
 
 
 1977年2月25日、コグウェルが殺害される。
 シカゴ・アウトフィットと親しくサウスサイドの労働組合にも利権を持っていた彼の殺害は、アウトフィットによるものとも考えられているが、残された者たちはフォートの犯行を疑いBPSNを脱退する。
 その後コブラ・ストーンズは故人をしのんでミッキー・コブラズと改名し、セオティス・クラークの指揮下でフォートと敵対することとなった。
 
 
 こうして始まったエル・ルークンズではあったが、そのメンバーにはフォートの熱狂的な支持者しか選別されない少数精鋭のいわば「上部団体」であり、そのほかのBPSN所属ギャングはそれぞれのリーダーに従っていた。黒人ギャングの栄枯盛衰は激しく、かつてのメイン・21幹部のうちエル・ルークンズのジェネラルとなったのは、レオナルド・センガリ、チェスター・エヴァンス、レイコ・クランショウの3名のみであったという。
 
 しかしフォートは徐々に連合内クーデターを進行させ、リーダー達の首を挿げ替えていく。
 例として1981年には、タイタニック・ストーンズのビブスを麻薬関係のもめ事で腹心の部下アール・ホーキンスに殺させている。
 
 
 フォートは自分を「プリンス・マリク」もしくは「チーフ・マリク」と呼ばせていた。
 長年の本拠地であったサウス・ショア地区「テラー・タウン」に神殿を構えた彼は、縄張り内の麻薬や売春を取り仕切り、毛皮のコートと金のアクセサリーに身を包んでその力を誇示していたという。
 またエル・ルークンズのメンバーは姓に「エル」をつけることを強制されたが、これは法執行機関のコンピューターを使ったギャングメンバーの特定を容易にしてしまったという。
 
 
 1978年11月ピープル・ネーションが設立され、ムーア人科学の影響はヴァイス・ローズにまで伝わっていくこととなる。同ネーションにおいてはBPSNがイスラーム・サイド、ラテン・キングスがカトリック・サイドを代表する存在であるという。
 
 
 
・崩壊
 1983年フォートは麻薬取引で13年の刑を言い渡される。
 
 その後も獄中からなおもギャングを操り続けていたフォートであったが、1986年やはり獄中のホーキンスが死刑を免れるために捜査当局に協力し、フォートの犯罪について証言する。
 
 ホーキンスはまた、フォートがリビアの独裁者カダフィと共謀していたテロ計画についても証言した。
 エル・ルークンズはパナマでリビアの密使と会合しており、リビアから軍資金と武器を受け取った後に警察相手に市街戦を挑むつもりであったという。
 
 このテロ計画容疑にかねてからの殺人もあり、後にフォートの刑期は150年以上追加されている。
 加えてエル・ルークンズ推定200名のうち50名以上の部下たちも収監されたが、これは同組織にとっては致命傷であった。
 
 
 1988年10月「ブル」・へアストンが殺害される。彼はかつての盟友フォートに麻薬取引の「税金」を支払わなかったために長年狙われ続けてきていた。
 
 
 1989年エル・ルークンズは名実ともに完全に消滅し、ブラック・P・ストーンズが復活することとなる。すでに40歳を超えて今後釈放される可能性も皆無であったフォートは権力を失い、新生BPSNの象徴的存在になっていった。
 ストリートでは形式的にはフォートの息子ワトキータとアントニオがリーダーだったが、前者は1998年に麻薬及び殺人で収監され、後者は1997年に殺害されている。
 
 
 
 
 
・各支部の概要
 
・ジェット・ブラック・ストーンズ
 ジェフ・フォートの息子ワトキータのセットである。
 
・ギャングスター・ストーンズ
 ラリー・フーヴァーの部下でありながらBPSNに残ったハーマン・「ムース」・ホームズのセットである。
 後継者のヘンリー・「ジューンバグ」・ブラウンはエボニー・ヴァイス・ローズと共同でギャングスター・ストーン・ヴァイス・ローズという混合ギャングを作ったが現在では消滅している。
 
 
・ジャバリ・ストーンズ
 ジェフ・フォートの息子アントニオと親しかったジャバリ・ブラウンが、フォートの出身地であった「テラー・タウン」地区で1990年代中盤に立ち上げた組織である。
 ブラウンはその後おそらく数人の幹部の支持を得てアントニオを殺害したが、処刑に賛同しない幹部たちの怒りを買い、自らのギャングからも追われてしまう。
 ジャバリは1998年に殺人で有罪となって長期間服役し、組織は名前を変えて活動している。
  
  
・ノー・リミット・ストーンズ
 やはりジャバリ・ブラウンによって1990年代後半に結成された。ギャング名はノー・リミット・レコーズにあやかったという。
 
 
・タイタニック・ストーンズ
 1960年代後半からの「ブル」・へアストンが収監されていた時期に、フォートは彼の影響力をそぐためにBPSNメンバーに面会を禁止し、さらに側近ポール・マーティンを殺害した。
 こうした中でもへアストンに忠誠を誓っていたのが、メイン・21の幹部でもあったランディ・「ルーブ」・ディラードとハーバート・「サンダー」・スティーブンス、そして彼らが結成したタイタニック・ストーンズであった。
 
 1971年殺人罪によりディラードは死刑、スティーブンスは終身刑を宣告されて共に収監される。メナード刑務所に送られたディラードはそこでへアストンに再会し、改めて忠誠を誓っている。
 
 彼らは1974年のへアストンの仮釈放とともにBPSNの実権を奪い返すはずだったが失敗し、逆に「ダラー・ビル」・ビブスがフォート派と和解し、フォートにストリートでの権力を完全に掌握されてしまう。
 
 フォートはへアストン派から刑務所内での権力も奪い取った。
 スティーブンスはその後イスラームへと改宗してギャングの道を去ったが、死刑を終身刑に減刑されたディラードは依然としてメナード刑務所で健在であり、1980年代中盤には所内の権力を奪い返している。
 
 
 1976年エル・ルークンズが結成される。

 フォートはエル・ルークンズには、ごく少数の精鋭幹部しか選ばなかった。
 しかしいったんはルークンとして選ばれたビブスは、その後エル・ルークンズを抜けタイタニックスへと復帰した。それにもかかわらず組織のコネクションを利用して人工ヘロイン「Ts・アンド・ブルーズ」の取引は続けていたために、フォートの怒りを買い1981年殺害されてしまう。
 
 この事件によってタイタニック・ストーンズとエル・ルークンズの対立は決定的となり、1980年代を通じてへアストン及びロバート「ボタン」とレイ「スクーター」のイースト兄弟がリーダーを務めていた。
 
 1988年へアストンが殺害され、数か月後に「スクーター」・イーストも警官からの暴行によって、逮捕を避けるために飲み込んだコカイン袋が胃の中で破裂して死亡する。
 その後はへアストンの弟のリロイと息子のオマー、そして「ボタン」・イーストが指揮を執っている。
 
 2010年にはアンソニー・ウォンケによりドキュメンタリー「Crack House USA」が製作されている。
 
 
 
・ルーブナイト・ストーンズ
 1980年代後半に死刑囚監房にいたランディ・「ルーブ」・ディラードによって結成される。
 彼にはI-57・キラーと呼ばれていたヘンリー・ブリスボンと共謀し、連続殺人鬼ジョン・ウェイン・ゲーシーを刺したという逸話がある。

 ディラードはへアストンが殺害された後、彼の副官であったことを根拠に全ストーンズの王であると主張する。1990年代には50名にも満たない少人数でありながらその暴力性で恐れられ、ジェット・ブラックスなど他のストーンズと抗争を展開した。

 ディラードは理由は不明ながら死刑を免れ、2000年代後半に釈放されている。
 
 
・イスラエライト・ストーンズ
 ジェームズ・「プリンス・ヨック」・ブラントリーによって設立された。
 1980年代にはすでに60歳に達していた人物であり、フォートの精神的指導者となり、フォートはエル・ルークンズ設立の発想を彼から得たという。
 
 
・ミッキー・コブラズ
 1954年にジェームズ・コグウェルによってウエストサイドで結成されたエジプシャン・コブラズは14th・ストリート・クローヴァーズと戦い、クローヴァーズのメンバー逮捕と収監によっていったんは勝利したかに見えた。
 
 しかしクローヴァーズのメンバーは少年院でヴァイス・ローズ結成に参加し、彼らが娑婆に出てくると、今度は逆にコブラズがサウスサイドに追いやられてしまう。
 
 1961年にジェームズが殺害されると弟のヘンリー・「ミッキー」・コグウェルが後を継ぐ。
 ヴァイス・ローズ、ブラック・ディサイプルズ、シュープリーム・ギャングスターズなどの大ギャングに対抗するために1966年のBPSN結成に参加してコブラ・ストーンズと改名し、コグウェルはフォートの副官として活動していくことになった。
 
 1972年フォートは援助金詐欺によって収監され、その留守中コグウェルはBGDなど他ギャングのほかに権力奪回を狙うへアストン派とも戦っていた。
 またマフィアのアソシエイトとしてナンバーズ賭博にもかかわっていたという。
 
 
 1976年刑務所より戻ってきたフォートによりエル・ルークンズが結成される。
 しかしそのブラック・イスラーム化を推し進める強硬な政策にコグウェルは公然と反対した。
 そのほかにも彼はBPSNを政治団体として組織しなおそうとしており、また従来アウトフィットの領域であった労働運動にかかわっていたが、これも致命的なミスとなった。
 
 1977年2月コグウェルが射殺され、フォートは関与を否定したものの、後継者セオティス・クラークは彼とエル・ルークンズをコグウェル殺害の犯人であると非難し抗争に突入する。ギャングは故人に敬意を表してミッキー・コブラズに改名し、カブリニ・グリーンなど多くの団地地帯を根城にして活動していくことになった。
 
 
・ラ・ファミリア・ストーンズ
 1968年にはBPSNの影響力は刑務所内にも及んでおり、獄中にてその力を見込んだダニー・ヴァレスがラテン系の支部設立を持ちかける。
 ヴァレスは以前にラテン・イーグルスを追放されており、その復讐にBPSNの力を借りようという腹積もりだったのだが、BPSNは非黒人メンバーの加入に難色を示し、新たに設立されたプエルトリカン・ストーンズは外様的存在にとどまった。

 彼らPR・ストーンズは1970年代を通じてラテン・イーグルスやサイモン・シティ・ロイヤルズと抗争を続け、1983年には徒弟組織フューチャー・ストーンズを生み出す。
 世代交代とともにF・ストーンズが力を強め、母体組織を逆に吸収していくが、1990年代にメンバーの一人「ブロリーオ」がラ・ファミリア・ストーンズを結成した後は、三派のうちの最大勢力になり、残り二派は消滅または吸収されている。

 ブロリーオは1996年に仲間割れで殺され、その後は「スライス」がリーダーになっている。
 
 
・ブラック・P・ストーン・ブラッズ
 1969年にシカゴからLAへと移住した少年T・ロジャーズが現地のギャングジャングルズをブラック・P・ストーン・ジャングルズへと転向させる。その後1973年のブラッズ結成に参加しその一ギャングとして活動していくことになった。

 シティ・ストーンズとジャングルズの2派にわかれており、どちらもシカゴとのつながりは薄いようであるが、ブラッズにブラック・イスラームの影響をもたらしたのは彼らではある。
 
 
 
 
 
・参考文献
 ブラック・P・ストーンズについてのまとまった書籍としては、Natalie Y. Moore「The Almighty Black P Stone Nation: The Rise, Fall, and Resurgence of an American Gang」がある。BPSNの歴史を1960年代から2000年代までバランスよく追った良作であり、やや簡潔すぎるところもあるが、BPSNの概要を理解するには十分な情報量である。
 
 ただこの本だけでは不十分な部分も多いので、本文は以下の3つのサイトにも全面的に依拠している。
 まず老舗サイトである「chicagogangs.org」とその更新停止に触発されて2016年より開設されたchicagoganghistory.com」、そして2013年の一時期存在したchicagostreetgangs.webs.com」である。
 いずれも警察やメディアとは関係のない一般サイトなので信頼性については読む方で判断してほしいが、おそらくシカゴのストリートギャングについては、一般に読めるレベルでは最高の文献であると思われる。
 

「ブラック・P・ストーンズ」参考文献
Natalie Y. Moore「The Almighty Black P Stone Nation: The Rise, Fall, and Resurgence of an American Gang」
http://www.chicagogangs.org/
http://chicagogangs.org/index.php?pr=BPSN
https://chicagoganghistory.com/
https://chicagoganghistory.com/gang/almighty-black-p-stones/
https://web.archive.org/web/20130817190049/http://chicagostreetgangs.webs.com/
https://web.archive.org/web/20130630111043/http://chicagostreetgangs.webs.com:80/blackpstones.html
ジェフ・フォートの家系図
http://chicagocrimescenes.blogspot.jp/2009/12/jeff-fort-family-tree.html
エル・ルークン神殿
http://chicagocrimescenes.blogspot.jp/2009/01/el-rukn-temple.html
「各支部」
タイタニック・ストーンズ
http://chicagogangs.org/index.php?pr=TITANIC_STONES
イスラエライト・ストーンズ
http://chicagogangs.org/index.php?pr=ISRAELITE_STONES
ギャングスター・ストーンズ
https://chicagoganghistory.com/gang/gangster-stones/
ブラック・P・ストーン・ブラッズ
https://unitedgangs.com/black-p-stones/
黒人アソシエイトとしてのコグウェル
http://gangsterreport.com/top-5-black-associates-italian-mafia/
 
 
・更新履歴:2019年1月19日、「BPSNとメイン・21」(旧題「メイン・21」)などにいくらか加筆。

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