ンドランゲタ

・序文
・概要
 ・階級
 ・主要ンドリナ(一家)
 ・歴史
  ・第一次ンドランゲタ戦争
  ・第ニ次ンドランゲタ戦争
  ・サン・ルカ抗争
 ・麻薬密輸
・カラブリア外のンドランゲタ
 ・カナダ
 ・オーストラリア
 ・バジリシ-第5のマフィア
  ・バジリカータの犯罪者たち
  ・バジリシ登場
  ・バジリシの崩壊
・終わりに
 
 
 
 
 
・序文
 
 カナダ・マフィアについて書く過程で、カラブリア系犯罪組織、いわゆるンドランゲタについて興味がわいたので、ついでと思いちょくちょくと調べていた。
 いわゆる「組織犯罪」は文献が多い世界で、しかもこの場合その多くがイタリア語であるので、英語ソースしか読めない筆者がこのトピックについて書くのは少し引け目を感じるが、日本語版wikipedia「ンドランゲタ」の項があまりに貧弱なので、それならばと思い書くことにした。

 イタリア語の表記に怪しいところがあるが、それはご勘弁願いたい。

 ンドランゲタについては、存在は知っていても詳しいところは知らないという人がほとんどだと思うが、せめてコミッソ、デ・ステファノ、ピロマッリなどの巨大一家の名前と、ンドランゲタ戦争、ジョン・ポール・ゲティ三世誘拐など有名事件のあらまし程度は知っていると、メディアのンドランゲタについての断片的な報道もより深く理解できるだろう。

 情報源のほとんどをen.wikipediaに頼ったので、日本語版wikipediaに書くことは考えなかった。
 そのためにen.wikipediaの個々のurlは文を短くするために省略するが、参照したen.wikipediaの該当記事にはイタリア語及び英語の参考文献が挙げられているので、細かい出典が気になる方はそちらを見てほしい。

・概要
 本文は伝統的にマフィア、カモッラに次ぐ第三勢力と目されながら、近年目覚ましい成長ぶりを見せるンドランゲタについてのまとめである。20世紀後半の二つの抗争とイタリア国外での活動を中心に記述し、組織構造、犯罪活動などは簡潔に述べるにとどまる。

 ンドランゲタは南イタリアのカラブリア地方に存在する犯罪組織であり、その名はギリシャ語で「勇気ある男の社会」を意味するアンドランガセイアに由来する。
 大小のンドリナ(一家。言葉自体は「強靭な男」を意味する。主に血縁者からなるため事実上の「一家」である場合も多い。複数形はンドリン)からなり、推定6000人から10000人のメンバーを有している。またフリーメーソンに影響を受けた秘教的一面があり、組織を大樹に例え、ボスを幹、幹部や新入りを枝葉に例えた自己理解をしているのも大きな特徴である。

 多種多様な犯罪に手を出すンドランゲタは欧米全域に進出しており、カナダ、オーストラリア、ドイツなどカラブリア移民が多数存在する国では直接ンドリナを作り「植民地化」するが、それ以外の国や地域では、特に現地で強力な犯罪組織が存在する場合は従属的な立場に回ることが多いという。
 例えばシシリア系が強いニューヨークでは、「暗黒街の首相」と呼ばれたフランク・コステロやアルバート・アナスタシアのようなカラブリア系犯罪者はマフィアの一員として活動し、自らの「ンドリナ」を持つことはなかった。(念のために言うと部下を持っていなかったという意味ではない)。
 
 
 
・階級

・カポ・クリミーネ
 サン・ルカ村で毎年10月に行われる「クリミーネ会議」の議長である。
 1960年代初頭から1975年に殺害されるまではアントニオ・マクリが、その後はニルタ一家とピロマッリ一家を中心に有力者が交代で務めている。

・カポ・バストーネ
 各ンドリナの「ボス」である。

・サンティスタ
 ンドランゲタ内の秘密組織「ラ・サンタ」のメンバー。
 
その他トレクアルティーノ、ヴァンゲーロなど。
 
 
 
・主要ンドリナ(一家)
 ンドランゲタは全世界で100以上の一家と1万人を超えるメンバーを有するとみられているが、その本拠地とするカラブリア州は5つの県に分かれており、彼らは主に南西部のレッジョ・カラブリア県を中心に活動している。東部のシデルノ、北部のジョイア・タウロ、そして南部のレッジョ・カラブリア市が主な縄張り区分である。
 
 
・コミッソ・ンドリナ(シデルノ市)
 旧世代の大ボスアントニオ・マクリが第一次ンドランゲタ戦争で殺害された後に部下のフランセスコ・コミッソがその後を継いだ組織である。
 1980年代にはカナダ帰りのコスタ一家と対立するも、1991年からの双方合わせて36名の死者を出した抗争に勝利し、ンドランゲタ最大の一家の一つとしての地位を保ち続けている。
 カナダのトロントでも影響力を持つ。
 
 
・デ・ステファノ・ンドリナ(レッジョ・カラブリア市アルチ地区)
 ンドランゲタ最大の一家の一つであり、第一次、第ニ次ンドランゲタ戦争共に中心的な役割を果たした。
 ジョヴァンニ(1974年殺害)、ジョルジオ(1977年殺害)、パオロ(1985年殺害)と次々に兄弟を失いながらも、弟のオラツィオは2017年現在まで生き延び、権力の次世代継承に成功している。
 
 
・ピロマッリ-モーリ・クラン(ジョイア・タウロ地方ジョイア・タウロ村)
 ピロマッリはンドランゲタ最古のンドリナの一つであり、婚姻によってモーリ一家と結びつき、現在でも強力な裏社会の名門一家として畏敬を集めている。
 創設者のジョアッチーノ・ピロマッリが1956年に没すると息子のジローラモが後を継ぎ、ヴェントレ-カルリーノ・クランとの間に起こった抗争を制しジョイア・タウロでの地盤を確かなものとした。
 その後一家は「太陽のハイウェイ」建設計画を食い物にしてンドランゲタ有数の存在となり、トリポド、マクリと並び立って三頭政治を行った。

 しかしジローラモは第一次ンドランゲタ戦争の首謀者の一人であり、デ・ステファノと共謀し他の2人の追い落としを図った。またジローラモはこの抗争中に「抗争相手を豚に食わせた」と妻に自慢していたという。

 2008年に武闘派のロッコ・モーリが殺害されると両一家の大抗争が予測されたが、獄中のボスジローラモ・モーリは「我々の間には切っても切れない100年の絆がある」と安易な復讐を戒めたという。

「参考文献」ピロマッリ一家の100年
https://globalmafianews.wordpress.com/2014/10/28/100-years-of-history/
 
 
・ペスチェ-ベロッコ・クラン(ジョイア・タウロ地方ロサルノ市)
 ジュゼッペ・ペスチェのペスチェ一家、サクラ・コロナ・ウニタ設立にかかわったウンベルト・ベロッコのベロッコ一家の連合体であり、ピロマッリ-モーリ・クランとともにジョイア・タウロ港を支配している。
 
 
・モラビト・ンドリナ(ロクリーデ地方アフリコ村)
 1934年生まれのジュゼッペ・モラビトが構えた一家で、彼は1980年代にはモリッカ一家を従えてスぺランザ-パラマラ-スクリヴァ・クランとの抗争に勝利した後地域単位「ロカーレ」のボスとなっており、第ニ次ンドランゲタ戦争の後は調停会議「ラ・プロヴィンシア」にも参加している。
 逃亡中のトト・リイナをかくまったこともあったという。

 モラビトはまた、カラブリアの対岸にあるシシリア島メッシーナにコーサ・ノストラに先駆けて支部を開設した。そこではメッシーナ大学を縄張りに組み入れ、学位や教職の采配を支配して、逆らうものは爆弾などで脅迫していたという。
 さらには東に位置するバジリカータにも進出していた。後述する。
 
 
・カタルド・ンドリナ(ロクリ村)
・コルディ・ンドリナ(ロクリ村)
 ロクリ村のカタルド一家は、1967年ドメニコ・コルディを密輸煙草を盗んだと疑い「ピアッツア・メルカトの虐殺」によって殺害したことによってコルディ一家と対立する。
 その後の第一次ンドランゲタ戦争ではデ・ステファノ一家につきジュゼッペとニコラを殺し屋部隊の一員として派遣し、マッツァフェッロ兄弟とともに大ボスアントニオ・マクリ殺害を実行した。

 カタルド一家はマラフィオーティ一家と親しく、またコロンビアからのコカイン密輸においてはシシリアのカントレラ-カルアナ・クランとも関わった。
 コルディ一家とは1975年に休戦していたが、1993年にはジュゼッペ・カタルドの乗る車に爆弾が投げつけられたことで抗争が再燃する。しかし2000年代後半にはカタルド一家のアントニオ、コルディ一家のヴィンセンツオなど双方の幹部に逮捕者が相次ぎ、2010年には再び休戦している。
 
 
・セライノ・ンドリナ(レッジョ・カラブリア市郊外カルデト村)
 1926年生まれのフランセスコ・セライノは「山の王」と呼ばれてアスプロモンテ山脈の林業を仕切っていたが、1977年にジョルジオ・デ・ステファノ殺害に関与し、デ・ステファノ一家の恨みを買ってしまう。
 そのため第ニ次ンドランゲタ戦争にはコンデロ-イメルティ・クラン側で参戦するが、レッジョ・カラブリア市の病院で息子のアレッサンドロとともに殺害される。
 残されたフランセスコの兄弟パオロとドメニコのが跡を継ぐが、1995年に逮捕されている。
 また婚姻で生まれたセライノ-ディ・ジョヴィーネ・クランがミラノで活動していたがこれも1995年には崩壊している。

・マモッリティ-ルゴロ・ンドリナ  ジョイア・タウロ地方
 カステラーチェ村及びオッピド・マメルティーナ村に地盤を置くマモッリティ一家は1950年代にバルバロ一家と対立し、先手を取られて家長フランセスコ・マモッリティを殺害されるもフランセスコ、ジョヴァンニ・バルバロを殺害し、彼らをプラティ村に追いやることに成功する。

 1978年にはフランセスコ・マモッリティ殺害の罪による26年の服役を終え出所したドメニコ・バルバロにも復讐を果たし、勝利をゆるぎないものとした。
 ピロマッリ一家やマッツアフェロ一家と縁戚関係を持ち、1973年のジョン・ポール・ゲティ三世の誘拐にもかかわった。
 
 
・バルバロ・ンドリナ(プラティ村)
 ジョイア・タウロ地方のオッピド・マメルティーナ村でマモッリティ一家との抗争に敗北してプラティ村に移住したバルバロ一家は、しかしアスプロモンテ山脈ふもとの寒村である移住先にてペッレ、トリンボリ、アグレスティ、カタンザリティ、セルジ、パパーリア、ムシターノ、モルーソなどの一家と縁組によって結束を深め、プラティ村の犯罪者人脈は移民を通じて活動の場をカナダやオーストラリアへと拡大していった。

 長くボスを務めたフランセスコ・バルバロは「誘拐王」と呼ばれ、少なくとも17件の営利誘拐に関わっている。1989年の逮捕後は息子のジュゼッペが2001年の逮捕まで一家を取り仕切っていたのだが、ジュゼッペはプラティ村内の下水道を改造した地下要塞を隠れ家にしており、それまでの数十年間誘拐された人質はこの地下要塞に監禁されていたと見られている。
 もう一人の息子パスクアーレは1980年以来オーストラリアのメルボルンを拠点としていたが、2008年にMDMA密輸で逮捕されている。

 ちなみに上記パパーリアはカナダのハミルトンの犯罪ファミリーであり、近隣のデリアヌオヴァ出身のムシターノもまたプラティ村と関係すると思われる。
 
 
ンドリナの一覧表
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_%27ndrine
ンドランゲタのメンバー一覧
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_members_of_the_%27Ndrangheta
 
 
 
 
 
・歴史

 その起源を19世紀後半にまでさかのぼることができるンドランゲタは、しかし長い間ナポリのカモッラに隠れて影の薄い存在でしかなかった。
 やがて2次大戦後になると、カラブリアの暗黒街は1960年代初頭からイオニア海沿岸シデルノ市のアントニオ・マクリ、ティレニア海沿岸のジローラモ・ピロマッリ、レッジョ・カラブリア市のドメニコ・トリポドが三頭政治を行うこととなった。
 その中でも野心的かつ近代的な精神の持ち主だったピロマッリはンドランゲタのさらなる強化を望み、誘拐や麻薬密輸への事業拡大を提案したものの保守派の他の2人からの反応は冷淡なもので、かえって彼の方から2人を見限りトリポドの部下であった新興勢力デ・ステファノ兄弟と手を組むこととなった。

 また同時期にンドランゲタは「レッジョ反乱」において右翼団体「イタリア社会運動」に所属するネオファシストたちをひそかに後援しており、反乱をおさめるためのジョイア・タウロ港及び鉄工所建設での利権争いもその後の抗争につながった。
 
 
 
・第一次ンドランゲタ戦争

 1974年から1976年にピロマッリ一家とデ・ステファノ兄弟が旧体制を代表するトリポド、マクリ一家と衝突した抗争である。

 ンドランゲタの伝統を重んじ、煙草密輸のような穏健な犯罪で稼いでいたトリポドは誘拐や麻薬密輸のような新興勢力の好む新たな「しのぎ」にも反対したが、ピロマッリの提案したンドランゲタ内部にて上級幹部からなる秘密社会「ラ・サンタ」の設立にはことさら抵抗を示した。マクリも麻薬密輸に強く反対した。

 するとピロマッリとマモリッティの後援を得たデ・ステファノ兄弟が北カラブリアの建設利権からトリポドを締め出し、さらにはトリポドの密輸煙草を強奪し始める。

 これに業を煮やしたトリポドはデ・ステファノ兄弟への先制攻撃を決意する。
 1974年に殺し屋がジョヴァンニ・デ・ステファノを殺害。

 1975年1月にはデ・ステファノ派のカタルド兄弟とマッツァフェッロ兄弟の5人が72歳になっていたアントニオ・マクリを殺害する。

 同年2月にトリポドは逮捕され、翌年ナポリの刑務所にて裁判を待っている間にデ・ステファノ兄弟と親交があったカモッラのラファエレ・クートロの指示によって刺殺される。
 
 
 1974年から1976年まで続いたこの抗争では233人から300人以上の人間が死亡している。

 抗争の結果としてパオロ・デ・ステファノが覇権を握り、ンドランゲタ内組織ラ・サンタが確立されることとなる。マクリ殺害後は彼の片腕であったフランセスコ・コミッソが後を継ぎコミッソ・ンドリナを結成してていたが、しかし報復には執着せずに新体制を受け入れている。

 ンドランゲタは新指導層の下で麻薬・誘拐産業に大々的に進出し、盤石の新体制を築けるかと思われたが、しかしアスプロモンテ山脈にて行われた休戦会議において、ジローラモの弟ジュゼッペ・ピロマッリの差し金でジョルジオ・デ・ステファノが殺害されてしまう。
 ジョルジオ暗殺後ジュゼッペ・ピロマッリは直ちに殺し屋ジュゼッペ・スラチを殺害し、首を切り落としてデ・ステファノ一家のところへと持っていき、すべては殺し屋本人の私怨によるものだとして許しを乞うたが、これは強大になりすぎたデ・ステファノ一家の力をそぐための陰謀であった。

 ジュゼッペはジローラモ死後の1979年よりピロマッリ一家のボスとなり、1984年の逮捕後も組織を操り続け、ついにはンドランゲタに批判的だったジョイア・タウロの市長を殺害するところにまで至ってしまう。
 
 
 
・第ニ次ンドランゲタ戦争

 シシリア島とイタリア本土のカラブリアは海によって隔たれているが、しかしこのメッシーナ海峡は最も狭い地点であるメッシーナとレッジョ・カラブリアのヴィラ・サン・ジョヴァンニ間でわずか3キロメートルの長さであり、ここに完成すれば明石海峡大橋の2倍にもなる橋を架けることは、古代ローマ時代から続く南イタリアの施政者たちの夢であった。
 20世紀に入りこの計画は大きく進展し、計画の具体化につれて巨大な建設利権が発生することとなる。

 この利権を目当てにデ・ステファノ・ンドリナ(一家)がイメルティ一家のヴィラ・サン・ジョヴァンニの縄張りに入り込んだのが抗争の遠因である。
 
 
 1983年デ・ステファノ対イメルティの緊張状態の中でアントニオ・イメルティがデ・ステファノ一家の部下だったコンデロ兄弟の妹ジュゼッピーナ・コンデロと結婚する。
 しかしこの結婚はデ・ステファノ一家のパオロ・デ・ステファノに将来の反乱への地盤固めと受け取られる。

 1985年10月11日パオロ・デ・ステファノはついにアントニオ・イメルティを爆殺しようとするが、ボディガード3人を殺害しただけでアントニオ本人には生き延びられてしまう。これに対してアントニオの反撃は素早く、わずか2日後コンデロ兄弟と組んでパオロを殺害する。
 この暗殺にはピロマッリ一家の後援があったと言われる。

 これによって

デ・ステファノ-テガノ及びリブリ、ラテラ
    対
コンデロ-イメルティ及びセライノ、ロスミニ

 の抗争が勃発する。

 同年12月2日には故パオロ・デ・ステファノの弟オラツィオがジョヴァンニ・テガノの姪と結婚し、デ・ステファノ-テガノの両一家の絆は深まっていく。
 パオロ死後の同盟の指揮はドメニコ・リブリが取り、獄中にいた息子パスクアーレをスナイパーによって殺害されるなどしながらも抗争を優位に進めるが、抗争は泥沼化し6年の長きに及んだ
 
 
 こうして1985年から1991年の間にデ・ステファノ-テガノ・クランとコンデロ-イメルティ・クランの間で戦われた抗争ではレッジョ・カラブリア市を中心に600人から800人が犠牲になった。

 またこの抗争では第一次ンドランゲタ戦争でデ・ステファノ一家に父ドメニコ・トリポドが殺された後国中を逃げ回っていた息子カーメロもコンデロ-イメルティ・クラン側で参加したが、復讐はならずに1996年に高利貸で逮捕されている。

 1991年消耗戦に倦んだ両勢力はサン・ルカ村の老ボスアントニオ・ニルタ、シシリアのトト・リイナらの仲裁により和平に合意、調停会議「ラ・プロヴィンシア」が発足することとなり、一応の結末として「パクス・マフィオーサ」が訪れた。
 
 
・サン・ルカ抗争
 サン・ルカ村を中心に20年以上にわたってスタンジオ-ニルタ・クラン対ペッレ-ヴォッタリ-ロメオ・クランが争った抗争である。
 1991年のカーニバルでのいさかい事を発端とし、ニルタ一家の長老アントニオ・ニルタがデ・ステファノ一家の助けもあり2000年には和解に至ったが、2005年に再発すると抗争はドイツにまで及び、デュイスブルグでは6名が殺害されている。
 
 
 
・麻薬密輸

 地中海においてスエズとジブラルタルの交易ルート上に位置するティレニア海沿岸のジョイア・タウロでは、1970年に起こったカタンツァーロを州都とする政府の決定に抗議する「レッジョ反乱」を抑えるために
イタリア最大の港ジョイア・タウロ港が建設されることとなった。港湾建設の利権にはデ・ステファノ一家、ピロマッリ一家などがかかわり、彼らはその後もジョイア・タウロ港を密輸の重要な拠点として支配し続けていた。

 そして一方で、シシリア島のマフィアが地中海のヘロイン密輸で莫大な富を稼ぐ一方で、後発のンドランゲタは1980年代から誘拐で得た資金をコカインに投資し、南米のコカイン生産地にて独自のブローカーの育成に尽力してきた。一説ではコロンビア発のコカインの80パーセントに何らかの形でかかわり、特にペルーでは現地での強力な犯罪組織の不在により大きな成功を収めたという。

 こういった中間ブローカーを使ったイタリアへの麻薬密輸は、ンドランゲタ自身が支配するジョイア・タウロ港で行われており、コロンビア、ペルー、ボリヴィアの南米三大産地からのジョイア・タウロ港へのルートは以下の3つに分かれている。

 まずカリフォルニアを出発してメキシコを通り、パナマを経由するその途中で中南米からのコカインを積み込むカリフォルニア・エクスプレス、メキシコから出発した船に中継地のバハマ自由港でコカインを積むメデューサ・ルート、そしてペルーからコカインを陸路でアルゼンチンの港まで運び、そこからウルグアイ、ブラジルを中継しつつイタリアまで向かう船に積み込むアルゼンチン・ルートである。

 3ルートはいずれもジブラルタル海峡を通過するために、ンドランゲタはスペインのほかモロッコにも協力者を持ち、リビア人がモロッコの富裕層にコカインを売りさばいているという。

「麻薬密輸」参考文献
エセックス大学のアンナ・セルジ教授による研究
ンドランゲタの麻薬ルート
http://www.academia.edu/14362377/Family_Fortunes_Calabrian_mafia_extends_international_reach
東部カナダの犯罪組織
https://www.academia.edu/33604360/Tale_of_two_cities._Criminal_groups_compete_in_eastern_Canada
 
 
 
 
 
・カラブリア外のンドランゲタ
 カラブリア人の移住により、ンドランゲタには現在カラブリア以外に3つの拠点が存在している。北イタリアのロンバルディア、カナダ、そしてオーストラリアである。
 
 
・カナダ

 戦前のカナダでは、カラブリアの有名な盗賊と同名のジュゼッペ・ムソリーノ、禁酒法時代の密輸業者であるプラティ村生まれのロッコ・ペッリ、その跡を継いだトニー・シルヴェストロなどが米国への交通の要所であるオンタリオで活動していた。
 一方モントリオールでは、戦後30年ほどはカラブリア州マモッラ出身のヴィク・コトローニ、シノポリ出身のパオロ・ヴィオリなどがにらみを利かせていたが、1970年代後半にはシシリア系のリズート・ファミリーに駆逐されてしまっている。

 このようにモントリオールで強いマフィアに対してンドランゲタはオンタリオ州トロント-ハミルトン地区を拠点としており、1950年代にニューヨークから来たカラブリア人が結成したと言われるシデルノ・グループを中心に活動している。
 彼らは新天地カナダにおいても母地シデルノと関係が深く、多くの人間が逃亡先にカナダを選ぶなど、シデルノの犯罪組織の幹部たちはカナダにいる」とシデルノ警察に言われるまでになっている。
 
 
・シデルノ・グループ

 カラブリアの貧困にあえぐ人口2万足らずの小都市シデルノから主にカナダとオーストラリアに散らばった犯罪者たちは、大トロント地域ではコルッチオ、タヴェルネーゼ、ディマリア、フィグリオメーニ、コミッソなどの小グループに分かれていたが、まず1950年代にニューヨークのカラブリア人マフィアであるアルバート・アナスタシアとフランク・コステロに団結を提案され、続いて1962年に調停会議「カメラ・ディ・コントローロ」がアントニオ・マクリに促されたミケーレ・ラッコによって組織されることで、一応のまとまりを見せることとなった。
 ミケーレ・ラッコは1980年に死に、息子のドメニクが跡を継ぐが、麻薬関係の問題でハミルトンのムシターノ・ファミリーに殺害されてしまう。

 2017年現在ムシターノ・ファミリーは謎の攻勢を受けており、ンドランゲタの関与が推測されている。

 2016年87歳の重鎮ロッコ・ズィトが殺害され、義理の息子ドメニコ・スコペリッティが逮捕されている。

 2010年時点ではトロントには7つのンドリナが存在し、ヴィンセンツオ・タヴェルネーゼ、コシモ・フィグリオメーニ、アントニオ・コルッチオ、コシモ・コミッソ、アンジェリーノ・フィグリオメーニ、ヴィンセンツオ・デマリア、ドメニク・ルソの7名がそれぞれの地区を支配している。
 
 
「カナダ」参考文献
トロントを支配する新たなマフィアたち
A New Mafia: Crime families ruling Toronto, Italy alleges
ロッコ・ズィト
https://www.thespec.com/news-story/6256406-longtime-mobster-rocco-zito-shot-dead-in-his-toronto-home/
「’Ndrangheta: The Glocal Dimensions of the Most Powerful Italian Mafia」Anna Sergi, Anita Lavorgna著
 
 
 
・オーストラリア
 2011年時点でオーストラリアには90万人を超えるイタリア系が存在しているが、彼らの先祖であるイタリア移民は主としてイタリア北部からきており、シシリア島とカラブリアからの移民は全体の5分の1程度であったと推測されている。

 1876年から1900年までの間オーストラリアには僅か14人のカラブリア人しか来なかったが、20世紀初頭から現在までには約7万人が到達し、彼らの多くが羊飼いや農夫などの職についた。

 そうした中で1922年12月に、1000人以上のイタリア移民を乗せたレ・ド・イタリア号が到着する。
 この船には「蛙」ことアントニオ・バルバロ、ドメニコ・ストラーノ、そして無名のもう一人が乗っており、彼らがオーストラリアのンドランゲタを創設することとなった。
 その中でも「蛙」アントニオ・バルバロはやや遅れて1930年代に移民してきた「法王」ドメニコ・イタリアーノとともにメルボルンのンドリナを取り仕切り、19世紀から続く巨大な青空市場クイーン・ヴィクトリア・マーケットで強盗や恐喝を繰り返していたという。

 戦前のオーストラリアにおいてンドランゲタはシシリア系のマフィアと共に「ブラック・ハンド」として知られる一方で、出自の異なるマフィアとは対立し、10件の殺人と30件の爆破事件を犯した。
 
 
 1951年プラティ村がカレリ川の氾濫による洪水に襲われる。
 人口7200人の村で貧困層を中心に三分の二が住む家を失ったと言われるこの災害で、約5000人が村を去ることを決心し、イタリア北部、そしてオーストラリアへと移り住んだ。
 すでにオーストラリアには2次大戦後のイタリアの困窮によってイタリア移民の大量流入が始まっていたのだが、高名な犯罪者一家を多く抱えるプラティ村からのこの移住によってンドランゲタはさらに力を強めていくこととなる。

 アデレードの七ファミリー(‘Seven Cells’ of Adelaide)と呼ばれる南オーストラリアのセルジ、バルバロ、トリムボリ、ロメオ、ニルタ、アルヴァロ、ペッレはとくに有名で、故地と強いつながりを持ち続けている。

962年に「蛙」アントニオ・バルバロと「法王」ドメニコ・イタリアーノが相次いで死去し、後釜争いが起こる。

 1980年代の各地のボスは南オーストラリアのジュゼッペ・カルボーネ、ニュー・サウスウェールズのドメニコ・アルヴァロ、キャンベラのパスクアーレ・アルヴァロ、グリフィスのピーター・カッリパリ、アデレードのジュゼッペ・アルヴァロ、そしてメルボルンのパスクアーレ・バルバロであり、30年以上たった現在も名目上の縄張りは変化していないとみられる。

 現在のオーストラリアには上記を含めて31のファミリーが存在し、伝統的な組織犯罪のほか、メタンフェタミン(覚醒剤)の取引などに手を出している。

「オーストラリア」参考文献
オーストラリアのンドランゲタの進化-歴史的観点から
http://www.academia.edu/8614295/The_evolution_of_the_Australian_ndrangheta._An_historical_perspective
http://www.smh.com.au/national/from-armenia-to-australia-how-the-mob-controls-the-trafficking-of-ice-into-australia-20160318-gnlwal.html

オーストラリアは裏社会の全体像がよくわからないので特別に英語版wikiのリンクを張っておく
「名誉ある社会」
https://en.wikipedia.org/wiki/Honoured_Society_(Australia)
 
 
 
 
 
・バジリシ-第5のマフィア

 世界の組織犯罪に巨大な影響力を持つイタリアにおいて、シシリアのマフィア、ナポリのカモッラ、カラブリアのンドランゲタ、そしてパグリアのサクラ・コロナ・ウニタに次ぐ第5の勢力と目されているのが「バジリシ(Basilischi、トカゲの意)」である。

 靴の形をした南イタリアの「土踏まず」の部分に位置するバジリカータ(旧名ルカーニア)州は、農業を基盤として60万人の人口を有しており、地方首都であるポテンツァ市を中心とした西部ポテンツァ県と先史時代のサッシ遺跡で知られる東部マテラ県に二分されている。

 貧困が支配するこの地方では社会のみならずその犯罪もまた後進的であり、悪名高かった山賊たちがイタリア統一によって根絶されて以来、周辺地域にまで名の届くような犯罪組織はいなかった。世界的な犯罪組織を輩出するような地域に囲まれて、この地方はイタリア最貧困地域の一つでありながら組織犯罪とは無縁と考えられ、「幸福なルカニア」と呼ばれるほどだったのである。

・バジリカータの犯罪者たち

 こうした彼らの現代犯罪社会への導き手となったのはンドランゲタであった。

 第二次大戦後にンドランゲタが麻薬密輸に進出していく中で、ジュゼッペ・モラビト率いるモラビト・ンドリナ、デ・ルーカ・ンドリナなどが南イタリアの東西を結ぶ交通の要所であるバジリカータに目をつけてくる。

 「ラ・ヴィア・ルカーナ」と呼ばれたこのルートはヘロインのほか、アドリア海を挟んだ対岸のアルバニア産のマリファナも運び、バジリカータ人もおこぼれに預かり、南イタリア山地のひなびた田舎で古風な山賊根性を残していたバジリカータの犯罪者たちは、こうして国際的な麻薬ネットワークに組み込まれることとなる。

 1980年の地震と、その後の工業化による目覚ましい経済成長はバシリカタを都市化し、その犯罪者たちはさらに洗練の度合いを強めていった。
 さらにシシリア島で逮捕されたマフィオーソは、その影響力をそぐために故郷から離れたバジリカータで「自宅拘禁」される場合があり、彼らが移住先で新たな組織を結成したために先進的なマフィアの影響力が強まっていったという。
 こうして1980年代を通してバジリカータの土壌は少しづつ、だが着実に組織犯罪を受け入れるようになっていったのである。

・バシリシ登場
 1991年にはバジリカータ人によってンドランゲタに範を取ったヌオヴァ・ファミリア・ルカニアが結成されるも、実力不足により群小組織の中に埋もれてしまう。

 しかし同時期にポテンツァ市とマテラ市での暗黒街の争いに敗北した「天使の顔」ジョヴァンニ・ルイージ・コンセンティーノとその一党は、再起を図るためにカラブリアのンドランゲタに後援を頼み、彼らの庇護の下で密輸、強盗、マネー・ロンダリングを行いつつも独立の機をうかがっていた。

 1994年にコンセンティーノはンドランゲタの許可を得て獄中にてファミリア・バジリシを結成する。
 儀式、規約などンドランゲタに強く影響を受けた組織であり、その名は1963年のリナ・ウェルトミューラー監督の映画‘I Basilischi’に由来するという。
 こうしてコンセンティーノは中小のグループを従わせていき、バジリシの名は暗黒街やメディア、法執行機関の間で知れ渡っていった。コンセンティーノはンドランゲタからの独立を勝ち取った英雄として崇拝されていたという。

・バシリシの崩壊
 1999年に84名の大規模な摘発が行われ、バジリシは弱体化するものの、収監中のコンセンティーノの部下アントニオ・コシデンテの下で再起を試みる。

 しかしバジリカータ犯罪社会の慢性的な地盤の弱さから、コシデンテはンドランゲタの傀儡となる運命であった。
 新リーダーは組織全体の運営よりもポテンツァ市での自分の稼業を優先し、ンドランゲタやカモッラなどの侵入を防ぐこともできず、ついに2003年にはコシデンテとサルヴィエロ・ラヴィエッツィの間で私怨による抗争が勃発する。

 ンドランゲタはこれを解決するためにバジリカータを6地域に分けた6ファミリー制を提案するも、ンドランゲタの掟では地区単位である「ローカリ」が認められるには7人のボスの了解が必要であり、これはバジリカータ勢力の弱体化を狙ったものにすぎなかった。
 その後も抗争は収まらず、メルフィのカソッタとデリ・ガッティとの不和なども続きに権力秩序は無残に崩壊してしまう。

 コシデンテはこの抗争を有利に進めるために初期から警察へ情報を提供しており、2010年には完全に密告者に転向し、組織の秘密を多く明かすことになる。コンセンティーノもそれ以前に警察への協力者になっている。

 この結果としてバジリシは2012年に崩壊し、バジリカータ暗黒街の独立の夢は完全に失われた。現在のバジリカータには他地域の組織が入り込み、強力な指導者を欠いたまま現在に至っているという。

「バジリシ」参考文献
http://www.americanmafia.com/Feature_Articles_417.html
エセックス大学のアンナ・セルジによる研究
http://www.academia.edu/633694/Fifth_Column_Italys_Fifth_Mafia_the_Basilischi
http://www.academia.edu/17537569/A_qualitative_reading_of_the_ecological_dis_organisation_of_criminal_associations._The_case_of_the_Famiglia_Basilischi_in_Italy

「ンドランゲタ」全体の参考文献
英語版wikipedia「ンドランゲタ」及びその関連項目
https://en.wikipedia.org/wiki/%27Ndrangheta
組織犯罪についてのニュースサイトgangstersincのンドランゲタについての記事一覧
http://gangstersinc.ning.com/profiles/blogs/ndrangheta-overview
ンドランゲタの世界進出
http://gangstersinc.ning.com/profiles/blogs/italian-mafia-boss-talks-about-ndrangheta-s-global-reach

コミュニティ紙Guelph Tribuneの元記者JERRY PRAGER氏のブログ。
基本的に自著「LEGENDS OF THE MORGETI」からの抜粋なのだが興味深い内容が多い。
http://morgeti.blogspot.jp/
 
 
 
 
 
・終わりに

 「法と秩序」の西欧諸先進国に比べ、ヨーロッパ辺境の犯罪文化と犯罪組織、特に南イタリアのそれは奥深い伝統と屈折した精神を持ち、なかなか理解しがたいのだが、マフィアとはまた違うンドランゲタについて書いてみた。

 筆者は南イタリアの地理や文化に暗く、カラブリア州レッジョ・カラブリア県、東部のシデルノ、北部のジョイア・タウロ、そして南部のレッジョ・カラブリア市についてはほとんど知らない。
 そこで乏しい理解ながら、カラブリア、カナダ、オーストラリアの三地域について簡潔に述べたい。

 カラブリアでのいわゆる「ンドランゲタ戦争」は1次2次ともにデ・ステファノ一家が中心となっており、その大胆不敵な暴力性から、彼らはシシリア島のコルレオーネ・クランのような存在と考えていいのかもしれない。
 デ・ステファノに限らず抗争に関わった一家の多くは抗争終結から25年以上たった現在でも有力ンドリナであると思われる。
 ンドランゲタの多種多様な犯罪において、それに関わっている組織が巨大ンドリナたちとどうつながっているかを知れば、彼らを理解するうえで何らかの参考になるだろう。

 カナダでは、ハミルトンのムシターノ・ファミリーとトロントのシデルノ・グループの1980年代にまでさかのぼる因縁を知れたのは収穫だった。
 カナダはトロントをンドランゲタが、モントリオールをシシリア系マフィアが支配しているといわれているが、最近になってカラブリア/ンドランゲタ勢力がマフィアに攻勢をかけているようである。
 日本語でここら辺の事情が知りたいという人は、拙文ながら「カナダ・マフィア」を参照してほしい。

 オーストラリアでは伝統的にシシリア系よりカラブリア系の方が強いようである。

 バジリカータの「バジリシ」の存在は全く知らなかった。犯罪学者のアンナ・セルジ教授には感謝したい。

 他には、ニューヨーク・マフィアの有名人ではあるがあまり強調されることのないアナスタシア-コステロの「カラブリア人ライン」にも気づかされた。前者はトロペア出身、後者はコセンツァ出身である。カラブリア出身ということはNYでは大した意味を持たなかっただろうが、トロントでは何らかの権威を持っていたようである。

 「イタリアのGDPの3パーセントを稼いでいる」などと言われるンドランゲタだが、日本人には未知の部分が大きい。

 いずれもっと正確な知識を持つ人間によって、詳細なンドランゲタの解説が書かれてほしいと思う。

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